江戸初期の剣術家。名は保和(やすかず)。いわゆる「伊賀越(いがごえ)の仇討(あだうち)」で有名。伊賀国阿拝(あへ)郡服部(はっとり)郷荒木村(三重県伊賀市)の生まれ。幼少より養父に中条流、叔父に神道流を教えられ、のちに柳生(やぎゅう)十兵衛に剣を学んだといわれるが確証はない。長じて岡山藩主池田忠雄(のち鳥取に移封)に仕えたが、ゆえあって辞して郷里に帰り、数年後大和郡山(やまとこおりやま)藩松平忠明に仕え250石を給せられた。1634年(寛永11)11月7日、妻みねの弟渡辺数馬(かずま)(岡山藩士)を助けて、仇敵(きゅうてき)河合又五郎らを伊賀上野の鍵屋の辻(かぎやのつじ)で討った。その後約4年の間、藤堂(とうどう)家に身柄を預けられ手厚い保護を受けたが、翌年10月には仇討の際の兵法未熟を恥じ、数馬とともに同家の新陰(しんかげ)流戸波(となみ)又兵衛に入門している。1638年(寛永15)8月旧主にあたる鳥取藩池田家に引き取られることとなり、鳥取に到着直後の同月28日急病でこの世を去った。行年41歳。墓は鳥取市内の玄忠寺にある。
[渡邉一郎]
『大久保弘著『荒木又衛門抄』(1965・荒木会)』
新陰流の剣豪。伊賀国(三重県)藤堂家の服部平左衛門の次男として生まれる。幼名丑之助。一時養子に出るが,のち荒木姓を名のる。剣術の師は確証はないが,俗説では柳生十兵衛三厳から新陰流を学んだとも伝えられる。29歳で大和郡山,松平忠明家中の剣術師範となる。又右衛門の妻が備前岡山藩主池田忠雄の家臣渡辺源太夫の姉であった関係で,源太夫が同藩の河合又五郎に殺害され,その兄渡辺数馬の依頼で仇討の助太刀をすることになる。1634年(寛永11)11月,伊賀上野鍵屋の辻で本懐を遂げた。これがいわゆる〈伊賀越の敵討〉で,〈日本三大敵討〉の一つに数えられる。戦闘は午前8時から午後2時まで6時間に及んだが,死者は渡辺方1名,河合方4名の5名で,荒木又右衛門の36人切りは史実ではない。又右衛門らは一躍英雄となり,鳥取池田藩に引き取られるが,鳥取到着後わずか17日目に急死した。その死因は多くの疑問と憶測を生み,なぞとされている。
→伊賀越の敵討
執筆者:中林 信二
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(中井一水)
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…1909年,《碁盤忠信・源氏礎》を皮切りに,横田永之助(横田商会)の依頼で,牧野省三監督と組んで〈活動写真〉を撮り始め,やがて日活が創立(1912)されるとたちまち日活京都旧劇の大スターになった。牧野省三と仲たがいしたあとは,義弟(妹の夫)にあたる池田富保監督と組んで次々に作品を発表,25年,大作《荒木又右衛門》(松之助の〈1000本映画〉であった)が日活創設以来の大ヒットを飛ばした。26年,心臓病のため52歳で死去。…
…これはまた映画,歌謡曲といった分野まで及んだ。やがて史実を尊重した《荒木又右衛門》(1936‐37),史実を発掘した《相楽総三とその同志》(1940‐41)などの骨太い歴史小説の分野へと進む。戦後はさらに徹底した史伝体の《日本捕虜志》を発表,捕虜問題を通して日本人の民族性を追究した。…
…
[伊賀越物]
人形浄瑠璃,歌舞伎の一系統。1634年(寛永11)11月剣客荒木又右衛門が義弟渡辺数馬の助太刀をして伊賀上野城下の鍵屋の辻で河合又五郎を討ったという伊賀越の敵討を題材にした作品の総称。曾我兄弟,赤穂浪士と並ぶ三大仇討の一つとして,近世演劇のみならず小説,講談,さらには映画等にも広くとりあげられている。…
…この物語は曾我兄弟,赤穂義士の仇討とともに日本三大仇討と呼び,講談でもよく演ずる。数馬の義兄荒木又右衛門の助勢を中心として演じるので,《荒木武勇伝》または《荒木又右衛門》とも題する。一竜斎系統では代々受け継がれてきた得意の演目の一つであるが,〈三十六人斬り〉は虚構である。…
※「荒木又右衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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