荒木又右衛門(読み)あらきまたえもん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

荒木又右衛門
あらきまたえもん

[生]慶長4 (1599).1. 伊賀
[没]寛永15 (1638).8.28. 鳥取
江戸時代初期の剣士。柳生十兵衛三厳に剣を学んだといわれる。寛永11(1634)年11月7日伊賀上野鍵屋ノ辻で,義弟を助けて河合又五郎を討った話(伊賀越仇討)は有名。その後同 15年に鳥取藩主池田氏に召されて 1000石を供されたが同年没。

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デジタル大辞泉の解説

あらき‐またえもん〔‐またヱモン〕【荒木又右衛門】

[1599~1637]江戸前期の剣客。伊賀国荒木村の人。寛永11年(1634)伊賀上野で妻の弟源太夫のかたきを討つ。伊賀越えの仇討(あだう)ちとして有名。
直木三十五の時代小説。昭和5年(1930)刊行。初版刊行時のタイトルは「正伝荒木又右衛門」。

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百科事典マイペディアの解説

荒木又右衛門【あらきまたえもん】

江戸時代初期の剣術家。新陰流の剣豪。伊賀に生まれ,大和郡山藩の剣術師範を務める。1634年伊賀上野鍵屋(かぎや)の辻で義弟の岡山藩士渡辺数馬の仇討を助太刀(すけだち)したことで有名。いわゆる〈伊賀越の敵討〉で,〈日本三大敵討〉の一つ。戦闘は午前8時から午後2時まで6時間に及んだ。《伊賀越道中双六(すごろく)》などの歌舞伎や講談に脚色され,36人切りと喧伝されるが,史実とは異なる。のち鳥取池田藩に引き取られるが,鳥取到着後わずか17日で急死した。死因は不明。多くの謎を残す。
→関連項目伊賀街道敵討柳生十兵衛

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

荒木又右衛門 あらき-またえもん

1599-1638 江戸時代前期の剣術家。
慶長4年生まれ。柳生三厳(やぎゅう-みつよし)(十兵衛)に柳生新陰流をまなんだといわれる。寛永11年義弟の備前岡山藩士渡辺数馬に助太刀して,河合又五郎らを伊賀(いが)(三重県)上野の鍵屋(かぎや)の辻(つじ)で討った(伊賀越の仇(あだ)討ち)。寛永15年8月28日死去。40歳。伊賀出身。本姓服部。名は保和。

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朝日日本歴史人物事典の解説

荒木又右衛門

没年:寛永15.8.28(1638.10.5)
生年:慶長3(1598)
江戸前期の剣術家。本姓は服部氏で,諱は保知。伊賀国(三重県)服部郷荒木村生まれ。父の服部平左衛門は藤堂高虎に仕えて150石取りであったが,浪人してのち備前の池田忠雄に300石で仕えた。又右衛門は12歳のとき桑名藩主本多忠政の家臣で,同族の服部平兵衛の養子となった。元和3(1617)年主人忠政の姫路への移封にしたがったが,その後どのような理由からか養家を去ったという。郷里の伊賀へ戻り,姓を菊山,さらに荒木と改めている。生家も養家も服部姓だから変更するまでもなかったろうが,伊賀は忍者の服部氏に代表されるように同姓が多かったからであろう。柳生三厳(十兵衛)に剣を学んだとされているが定かではない。事実とすれば三厳が大和柳生谷に暮らした寛永3(1626)年以降の12年の間であろう。その後,大和郡山藩主松平忠明に剣術師範として250石で召し抱えられており,いずれにしてもその剣名は広く知られていたといえる。妻みのの実弟の渡辺数馬を助けて,寛永11年11月7日,伊賀上野の鍵屋ノ辻で河合又五郎を討った話(伊賀越の仇討)は有名。講談などで「36人斬り」と脚色されているが,史実では河合側死者4人のうち,又右衛門が2人を斬った。寛永15年8月,数馬と共に鳥取藩に引きとられたが,到着後18日目に41歳で没している。

(中井一水)

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世界大百科事典 第2版の解説

あらきまたえもん【荒木又右衛門】

1599‐1638(慶長4‐寛永15)
新陰流の剣豪。伊賀国(三重県)藤堂家の服部平左衛門の次男として生まれる。幼名丑之助。一時養子に出るが,のち荒木姓を名のる。剣術の師は確証はないが,俗説では柳生十兵衛三厳から新陰流を学んだとも伝えられる。29歳で大和郡山,松平忠明家中の剣術師範となる。又右衛門の妻が備前岡山藩主池田忠雄の家臣渡辺源太夫の姉であった関係で,源太夫が同藩の河合又五郎に殺害され,その兄渡辺数馬の依頼で仇討の助太刀をすることになる。

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大辞林 第三版の解説

あらきまたえもん【荒木又右衛門】

1599~1638) 江戸初期の剣客。伊賀国荒木村の人。剣を柳生十兵衛に学ぶ。1634年、義弟渡辺数馬を助け、伊賀上野の鍵屋の辻で数馬の弟源太夫(戯曲・講談などでは父靭負ゆげい)の敵かたき、河合又五郎を討った。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

荒木又右衛門
あらきまたえもん
(1598―1638)

江戸初期の剣術家。名は保和(やすかず)。いわゆる「伊賀越(いがごえ)の仇討(あだうち)」で有名。伊賀国阿拝(あへ)郡服部(はっとり)郷荒木村(三重県伊賀市)の生まれ。幼少より養父に中条流、叔父に神道流を教えられ、のちに柳生(やぎゅう)十兵衛に剣を学んだといわれるが確証はない。長じて岡山藩主池田忠雄(のち鳥取に移封)に仕えたが、ゆえあって辞して郷里に帰り、数年後大和郡山(やまとこおりやま)藩松平忠明に仕え250石を給せられた。1634年(寛永11)11月7日、妻みねの弟渡辺数馬(かずま)(岡山藩士)を助けて、仇敵(きゅうてき)河合又五郎らを伊賀上野の鍵屋の辻(かぎやのつじ)で討った。その後約4年の間、藤堂(とうどう)家に身柄を預けられ手厚い保護を受けたが、翌年10月には仇討の際の兵法未熟を恥じ、数馬とともに同家の新陰(しんかげ)流戸波(となみ)又兵衛に入門している。1638年(寛永15)8月旧主にあたる鳥取藩池田家に引き取られることとなり、鳥取に到着直後の同月28日急病でこの世を去った。行年41歳。墓は鳥取市内の玄忠寺にある。[渡邉一郎]
『大久保弘著『荒木又衛門抄』(1965・荒木会)』

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世界大百科事典内の荒木又右衛門の言及

【伊賀越道中双六】より


[伊賀越物]
 人形浄瑠璃,歌舞伎の一系統。1634年(寛永11)11月剣客荒木又右衛門が義弟渡辺数馬の助太刀をして伊賀上野城下の鍵屋の辻で河合又五郎を討ったという伊賀越の敵討を題材にした作品の総称。曾我兄弟,赤穂浪士と並ぶ三大仇討の一つとして,近世演劇のみならず小説,講談,さらには映画等にも広くとりあげられている。…

【伊賀の水月】より

…この物語は曾我兄弟,赤穂義士の仇討とともに日本三大仇討と呼び,講談でもよく演ずる。数馬の義兄荒木又右衛門の助勢を中心として演じるので,《荒木武勇伝》または《荒木又右衛門》とも題する。一竜斎系統では代々受け継がれてきた得意の演目の一つであるが,〈三十六人斬り〉は虚構である。…

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