改訂新版 世界大百科事典 「玉造柵」の意味・わかりやすい解説
玉造柵 (たまつくりのさく)
日本古代の城柵。〈たまつくりのき〉ともいい,玉作城,玉造塞とも記載されるが,同一のものを指すものと考えられている。《続日本紀》天平9年(737)条に初見の柵であり,陸奥国では,多賀城,胆沢(いさわ)城とともに長期間重要な役割を果たした柵といわれている。いわゆる胆沢の賊を討つ際にも中継基地として重要な役割をにない,胆沢の地が一応治まった後も,玉造塞には,多賀城,胆沢城とならんで兵士等が配されている。宮城県北大崎平野一帯を永く統轄した施設といえよう。この玉造柵については,古来種々の擬定地があるがまだ確定していない。かつて有力であった加美郡加美町の旧中新田町の城生遺跡は,その地が一貫して色麻郡内であるところから,玉造柵とするには無理があると考えられるようになった。東西1400m,南北850mときわめて規模の大きな大崎市の旧古川市の宮沢遺跡,また,同旧市の名生館(みようだて)遺跡を玉造柵にあてようとする説もあるが,確定をみるにいたっていない。
執筆者:桑原 滋郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報