会津寛延一揆(読み)あいづかんえんいっき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「会津寛延一揆」の意味・わかりやすい解説

会津寛延一揆
あいづかんえんいっき

1749年(寛延2)12月会津藩に発生した農民一揆猪苗代(いなわしろ)川東組金曲(かねまがり)村(福島県猪苗代町)などの農民が借米利息の引下げを要求したことに端を発したので、「金曲騒動」とも称された。金曲村などの反対農民1000人余が猪苗代に参集し、大寺から四手に分かれて若松城下に押し寄せ、12月24日には喜多方(きたかた)地方の農民も巻き込んで、その数1万5000人余にも達したといわれる。この一揆は、前年の凶作を直接原因として、磐城(いわき)・岩代(いわしろ)地方に同時多発的に起きた一揆の一つであるが、1745年(延享2)以来の連年の不作にもかかわらず過酷な年貢賦課により、農民が窮乏どん底に陥ったことが遠因となっている。当時会津藩内部において、町奉行(ぶぎょう)西郷仁右衛門(にえもん)ら年貢増徴派と郡(こおり)奉行中野藤太夫ら農村荒廃を招くとする反対派との間に激しい対立があった。農民側は土地の割当耕作反対、定免(じょうめん)制実施、年貢半免、労役軽減、貸米強要反対、郡代官や検地役人罷免、前郡奉行の復帰などの要求を掲げ、城下七日町木戸を打ち破って乱入した。これに対して藩側は家臣の総登城を命じ、鉄炮(てっぽう)を撃ち一揆勢を追い出した。一揆はさらに領内各地に波及し、郷頭(ごうがしら)、豪商肝煎(きもいり)などが打毀(うちこわし)にあった。藩はやむなく弾劾された役人の罷免、年貢半免、定免制施行など農民の要求を大幅に受け入れることによって解決した。

誉田 宏]

『庄司吉之助著『史料東北諸藩百姓一揆の研究』(1969・御茶の水書房)』『吉田勇著『ふくしま文庫 32 ふくしまの農民一揆』(1977・福島中央テレビ)』『田代重雄編『史料集成会津農民一揆 下巻』(1978・歴史春秋社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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