20世紀日本人名事典 「会田ヒデ」の解説
会田 ヒデ
アイダ ヒデ
- 生年
- 明治31(1898)年9月30日
- 没年
- 昭和48(1973)年5月24日
- 出生地
- 新潟県刈羽郡柏崎中四谷大字比角村
- 経歴
- 13歳の頃に名古屋の三重紡績に1年間勤め、高崎の伯母のところで3年間ほど手伝う。のち東京で働く父を頼って上京し蜂須賀侯の屋敷に4年間ほど勤めた後、煎餅店に移り、この頃、女店主から天理教の信者の話を聞く。同店を継ぐべく木瀬啓次郎と結婚するが、店はうまくいかず、大正11年5歳の長男を亡くし、のち家族が病気になるなど不幸が続いた。12年の関東震災後には自身が肺炎で生死をさまよう。この時の臨死体験を機に、13年天理教に入信、東京本芝教会に所属。14年初席、15年満席を経て、天理教教師となる。昭和3年天理研究会、12年頃には天理三輪講にも関わる。ハイヤー業や行商の傍ら、人助けを行っていたが、9年宗教活動に専念。実家の親戚を継いで会田姓となる。11年天理教開祖50年祭に出向きそのまま大阪にとどまり布教活動を続ける。13年天の啓示を受け、心道教を創始。大阪の東成区勝山で洗心堂の看板を出し易者として開業。16年上京、のち名古屋を経て、19年東京大岡山にもどり世界心道会を設立。戦後、恵比寿で活動していたが、21年本部を愛知県豊川市に置き、23年世界心道教と改め教勢を拡大した。教団での呼称は親様。48年娘・和子を2代目教主に遺言して没したが、ヒデの死のショックが大きかった和子に代わり、一時的に和子の娘・政美が3代目教主となる。その後すぐに和子が4代目教主に就任。61年和子の死後はヒデの孫に当たる政美が後を継ぎ、教嗣に就任した。信者は東海地方、特に愛知県周辺に多く、大阪と旭川に支庁、東京には東京教務庁、仙台に東北教務支庁があり、教団の祭事には全国から信者が集まる。豊川市の本部内に、56年親様講堂が、62年親様祖霊殿が建立された。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報