改訂新版 世界大百科事典 「估価法」の意味・わかりやすい解説
估価法 (こかほう)
古代・中世に朝廷官衙や国衙,または鎌倉幕府が制定した物品売買や代物貢納についての公定価格や代物の換算率の法。すでに令において,東西市の估価や,異国交易の估価とともに,賃租公田における諸国の估価が制定されている。また,798年(延暦17)の官符では,強制的な估価によらず,和市の価によるべきことが令せられており,このことから諸国の交易雑物にも,強制的な估価が設定されていたことがわかる。しかし,この和市の価によれば估価法は不用になるはずだが,947年(天暦1)には,交易雑物の価を減定することが議せられており,その後,962年(応和2),986年(寛和2),1072年(延久4),1179年(治承3)と估価法の制定が論じられている。鎌倉期にも朝廷では1195年(建久6),1249年(建長1),50年,53年,82年(弘安5),それをうけて幕府も1253年,54年に雑物価を定めている。後醍醐天皇も1330年(元徳2)に米価安定をねらって施策している。
估価法は収取体系が現物収取から交易による収取が多くなるにしたがって重要性を増していった。律令制中央官衙の定める估価は,主として交易雑物や地子交易物の国衙から官衙への納入の算定に用いるものであるが,914年(延喜14)の官符では,地子交易物の価法を諸国一律に絹1疋直稲50束,綿1屯直稲5束を,各国の事情に応じて差をつけた定価法を作り収納させている。これに対して,国衙の行う交易や,貢納物の換算価は,国衙の估価法ともいうべきもので,在地の時価,すなわち和市の価に対して,国衙が設定した換算率である。この国例の估価法と時価の差額が国司の利得になった。国司藤原元命の非法を訴えた988年(永延2)の《尾張国郡司百姓等解文》によれば,公定換算率は直絹疋別40~50束であったが,時価は疋別100束はしたといい,半分は国司の中間利得となったと訴えている。時代が下るにしたがって,物価騰貴に対処する政府の公定価格としての性格が強くなってくる。
執筆者:脇田 晴子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報