佐方村(読み)さかたむら

日本歴史地名大系 「佐方村」の解説

佐方村
さかたむら

[現在地名]廿日市佐方さがた・佐方一―四丁目・佐方本さがたほん町・山陽園さんようえん城内じようない一丁目・天神てんじん大東おおひがし五日市いつかいち佐方さかた

極楽寺ごくらくじ山の東南麓に位置し、南は廿日市、東は海老塩浜かいろうしおはま、北は屋代やしろ(ともに現五日市町)、西ははら村に接する。村の北西部は山地、南東は海に面し、佐方さがた(岩戸川)流域の平地に集落が展開する。沿岸部を山陽道が通り、岩戸いわど一里塚が設けられていた。

村名は、永正一八年(一五二一)三月一一日付の大内義興安堵(洞雲寺文書)に「安芸国佐西郡佐方村洞雲寺領」とみえる。永禄三年(一五六〇)二月七日付の毛利隆元安堵状(「防長風土注進案」所収)には「神領佐賀田之内永興寺事」と「佐賀田」と記されている。平良へら庄に含まれた地と考えられる。天文二三年(一五五四)七月二日付の毛利元就同隆元連署判物(「閥閲録」所収桂能登家文書)によれば、「佐方七拾五貫」の地が桂元澄の給知とされている。


佐方村
さがたむら

[現在地名]相生市佐方佐方一―三丁目

那波なば村の南西那波(現相生湾)西岸に位置する。佐方川流域の小平地に集落があり、同川河口部は佐方浦と称された。くが村から村境の鷹取たかとり峠を越えて赤穂城下へ至る道が通る。保延三年(一一三七)一〇月二三日の矢野庄立券文案(白河本東寺百合古文書)に「佐方野」とみえ、開発予定地として庄域に加えられていた。貞応二年(一二二三)に作成されたと考えられる佐方浦畠注文案(東寺百合文書)では麦畠二町九反余・秋畠七反余、友方以下一一名に編成されていた。佐方浦は那波浦とは地域的にひとまとまりととらえられ、預所職・地頭職については浦分として別相伝された。


佐方村
さがたむら

[現在地名]菊間町佐方

高縄たかなわ半島の北西部に位置し、いつき灘に面する。南東部の無宗天むそうて山から流れる佐方川流域と河口に集落がある。村名は古代の郷名賞多さがた、中世の荘園佐方保に由来する。戦国期には因島いんのしま村上吉光の持城無宗天城があった。天正一三年(一五八五)七月落城の後、慶長年間(一五九六―一六一五)に末孫の村上義光らが来住して長本ちようほん寺を創立し、佐方村上氏の源流となっている。


佐方村
さがたむら

[現在地名]金光町佐方

南の竜王りゆうおう山から北に延びて里見さとみ川へ至る緩斜面に広がる。北の里見川対岸は占見うらみ村・地頭下じとうしも村、東は須恵すえ村、西は六条院東ろくじよういんひがし(現鴨方町)。養和元年(一一八一)一二月八日の後白河院庁下文(案、新熊野神社文書)で、国役停止とされた京都新熊野いまくまの社領の一つに佐方庄がある。吉備津神社の流鏑馬料足納帳によると、康正元年(一四五五)「さかた」から四貫二〇〇文(ただし一貫二〇〇文は地下得分)が貢納されている。慶長一一年(一六〇六)には伊予今治藩藤堂高虎領で、高七一八石余(「徳川家康朱印状」高山公実録)


佐方村
さかたむら

[現在地名]五日市町佐方、廿日市はつかいち佐方さがた・佐方一―四丁目・佐方本さがたほん町・山陽園さんようえん城内じようない一丁目・天神てんじん大東おおひがし

佐方村(廿日市町)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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