佐藤昌介
さとうしょうすけ
(1856―1939)
農業経済学者。北海道帝国大学初代総長。南部藩士佐藤昌蔵(しょうぞう)の長男として陸奥(むつ)国(岩手県)花巻(はなまき)に生まれる。幼名謙太郎。父昌蔵はのちに代議士として活躍したキリスト者であった。1876年(明治9)札幌農学校1期生として入学、教頭クラークから学問的、宗教的な薫陶を受けメソジスト教会に所属。卒業後開拓使御用掛に奉職、83年アメリカに留学、農政学を専攻する。帰国後、札幌農学校教授、校長を経て、1918年(大正7)北海道帝国大学初代総長となり、30年(昭和5)退任。札幌農学校の廃校論や財政的危機と闘いながら同校の発展に尽力、「北大育ての親」といわれる。著書に『世界農業史』などがある。1899年創立の北海道農会の初代会長、また北海道庁に種々の献策を行った。
[船津 功]
『中島九郎著『佐藤昌介』(1966・川崎書店新社)』
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佐藤昌介 さとう-しょうすけ
1856-1939 明治-昭和時代前期の農業経済学者。
安政3年11月24日生まれ。佐藤昌蔵の長男。札幌農学校1期生としてクラークの教えをうける。アメリカに留学後,札幌農学校教授,校長などをへて,大正7年北海道帝大初代学長。「北大育ての親」といわれる。昭和14年6月5日死去。84歳。陸奥(むつ)花巻(岩手県)出身。著作に「世界農業史論」(共著)など。
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世界大百科事典(旧版)内の佐藤昌介の言及
【大農論】より
…具体的には広大な未開発地を有する北海道を管轄する[開拓使]の農事試験機関や札幌農学校などで実験や教育が行われた。この主張が現実に社会的な意味をもつにいたったのは,1880年代後半から90年代にかけてであり,1886年に北海道を視察した井上馨やマックス・フェスカがこれを主張したこと,88年札幌農学校教授佐藤昌介が《大農論》を著したことなどがそのきっかけとなった。佐藤は北海道においては30~60町歩の規模をもつ粗放経営が適当であるとした。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」