佐賀城跡(読み)さがじようあと

日本歴史地名大系 「佐賀城跡」の解説

佐賀城跡
さがじようあと

[現在地名]佐賀市城内

佐賀城下の中心に築かれ、竜造寺氏時代の村中むらなか(竜造寺城)が改築されたものである。

慶長七年(一六〇二)に佐賀城本丸台所が作られはじめ、翌年正月に完成。同一二年に西の丸の櫓が建てられ、同時に天守の瓦が焼きはじめられ、同一三年には佐賀城総普請が行われて町割も開始され、内堀外堀農民を動員して掘られた。北の堀は福岡藩の黒田如水の協力を得ている。同一四年天守閣が完成し、同一六年城普請の成就とともに鍋島勝茂は本丸に移った(勝茂公譜考補)。当時の佐賀城をしのばせるものは佐嘉小城内絵図など慶長年間の絵図で、佐賀県立図書館に保存されている。

佐賀城跡
さがじようあと

[現在地名]佐賀町佐賀

佐賀の市街地の東にある南北に細長い丘陵地安森やすもり山にある。一部段々畑となっており、東面は急崖をなす。城主は光富権之介といわれるが、もと伊与木弥平次の居城とも伝える(土佐国古城略史)。伊与木氏は伊与木いよき城築城後伊与喜いよき川河口を扼するこの地に城を築いて南方からの攻撃に備えたものであろうか。

光富氏は長宗我部氏の分流といわれ、初め一条氏に属して山路やまち(現中村市)にいたが、天正三年(一五七五)一条氏が没落し、幡多郡諸将がことごとく長宗我部元親に降った折、佐賀城を与えられたという。権之介は同一四年の豊後戸次川へつぎがわ合戦、次いで文禄元年(一五九二)朝鮮の役で伊与木弥平次らとともに従軍して功をたて、ことに城攻城に抜群の働きをしたが、この戦で傷つき元親の命で帰国の途中忠徳島で死去した(土佐国古城略史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報