佐賀村(読み)さがむら

日本歴史地名大系 「佐賀村」の解説

佐賀村
さがむら

[現在地名]平生町大字佐賀

大星おおぼし(四三八メートル)西麓に位置する。南は小郡おぐに、北は曾根そね、東は伊保庄いほのしよう(現柳井市)の各村に接し、西方海上にうま(現田布施町)佐郷さごう島を望む。村域のほとんどが大星山麓の丘陵地。上関宰判に属した。

粟屋権兵衛家文書(「閥閲録」所収)の天文二四年(一五五五)一二月一三日付のものに「周防国熊毛郡伊保庄佐賀村九拾捌石」とある。「注進案」は「佐賀村は往古大内家之時代伊保庄一円之内ニ、山を越へ来るニ阪路嶮岨なるより嵯峨とも阪とも書てわづか六石余之小村なりし由古老云伝へ候、然ルに隆景(小早川)公御正判物に伊保庄之内佐賀村六石三斗之定と有之候、左すれば佐賀と文字之改りしは凡弘治年中之頃よりと相見へ候、其後慶長之頃ニ至り脇村多く殖へ候故、伊保庄之内五百石引分けられ佐賀之古名を以一邑之名となし、只今ニハ千八百石余となり候、もとの阪村と申候所は今之大段と申所之由一村ニ申伝へ候」と記す。


佐賀村
さかむら

[現在地名]峰町佐賀

くし村の北にあり、集落は佐賀浦の北側に営まれる。浦の入口に小姓こしよう島があり、村の北東に海に突き出たたか山、集落の西に本松もとまつ山・一倉いちくら坂・穿うげ岩やホノ山、北に虫バイ山などがある。中世から佐賀津などとしてみえる交通の要衝で、島主宗氏の居館が置かれた。「郡方毎日記」寛永一五年(一六三八)条に「さか」とみえる。正保二年(一六四五)の物成九三石余のうち麦九〇石余・籾二石余(二郡村々物成)。寛文二年(一六六二)検地帳にはみね郡佐賀村とみえ、高三四石余。元禄一六年(一七〇三)の対州郷村帳では三根みね郷佐賀村として田畠木庭物成七九石余、家数五一・社一・寺二、人数二〇八・公役人二九・肝入一・猟師二三、牛三一、船六で、寺は禅宗の円通えんつう寺・妙泉みようせん寺。


佐賀村
さがむら

[現在地名]佐賀町佐賀

現佐賀町の南端近く、南流する伊与喜いよき川の河口に開けた海浜の村。河口から南方にかけては湾入がみられ、沖合いに鹿島が浮ぶ。古くから漁業を中心に発達したとみられ、長宗我部検地の頃には後述のごとく村内が二〇余の小村に分れていた。中村街道が通り、「土佐州郡志」は「東西往返之所、坤巽帯海、西限三股山入野郷、北背山、東西二十五町許南北八町許、(中略)村中有五小村」と記す。なお江戸時代には浦分を佐賀浦とよんだ。

当地が早くから開けていたことは、南北朝初期すでに商人の在住がみられることからも推察される。すなわち貞和五年(一三四九)六月一五日付京都東福寺宛の同寺領大方おおがた(現大方町)公文ほかが署判する送進文(東福寺文書)に「送進 大方郷貞和四年御年貢用途之事」として「右御年貢用途者、佐賀村商人以六郎衛門送進之処也」とみえ、大方郷の年貢を京都に送るにあたって、佐賀村商人がその用を務めていたことを物語っている。


佐賀村
さがむら

[現在地名]高富町佐賀

如来によらいヶ岳の東に位置し、鳥羽とば川左岸に集落が開け、右岸田地となる。東は高富村、南と西は西粟野にしあわの(現岐阜市)。田の多くは沼地金池かないけ古墳と小丸山こまるやま古墳(円墳)があり、金池古墳は破壊されてしまったが、現町域内唯一の竪穴式前方後円墳で、変形文鏡一個と提瓶二個が出土した。慶長郷帳では高一七七石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳は「さか村」と記して領主加納かのう(現岐阜市)城主松平忠隆とある。加納の奥平(松平)氏は寛永九年(一六三二)断絶し、以後幕府領となる。正保郷帳では田方一〇七石余・畑方六八石余、紙木高一石余とある。


佐賀村
さがむら

[現在地名]安曇川田中たなか

三田みた村の南に位置する。上寺うえでら村に至る坂道から村名が起こり、古くは坂村といったという。中世には田中郷のうち。寛永石高帳に坂村とあり、高三五五石余で膳所藩領。慶安高辻帳にも坂村とあり、田方三一三石余・畑方一六石余・永荒二五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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