俣野景久(読み)またの・かげひさ

朝日日本歴史人物事典 「俣野景久」の解説

俣野景久

没年:寿永2.5.11(1183.6.2)
生年:生年不詳
平安後期の武士五郎と称する。父は大庭景宗。相模大庭御厨俣野郷の住人。身長6尺(182cm)を超え,強力で相撲名手治承4(1180)年,石橋山の戦で平家方の兄大庭景親に従い,富士山北麓で甲斐源氏敗戦,京都へ逃れた。平維盛に従い,寿永2(1183)年,加賀篠原で木曾義仲と戦い敗れて自害。妻は尼となり鎌倉景正が郷内に建立した大日堂を守った。子孫に時宗総本山清浄光寺(遊行寺)を開いた呑海がいる。

(湯山学)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「俣野景久」の解説

俣野景久 またの-かげひさ

?-1183 平安時代後期の武将
相模(さがみ)(神奈川県)の住人。治承(じしょう)4年兄大庭景親(かげちか)とともに源頼朝を石橋山に攻めて敗走させ,ついで甲斐(かい)にすすんだが,安田義定,工藤景光(かげみつ)の軍に敗れて京都にのがれた。のち平維盛(これもり)にしたがって源義仲(よしなか)の軍とたたかい,敗れて寿永2年5月11日自害した。本姓は大庭。通称は五郎。

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