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斎藤実盛 さいとうさねもり

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

斎藤実盛
さいとうさねもり

[生]天永2(1111)
[没]寿永2(1183).6.1. 加賀
平安時代末期の武士。初め源為義,義朝,のち平宗盛に仕え,平維盛軍に従って木曾義仲と戦った。加賀国篠原の戦いでは鬚髪を黒く染めて奮戦したが,安宅 (あたか) で討死にした。『保元物語』では生年が大治1 (1126) 年となる。謡曲に『実盛』がある。

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デジタル大辞泉の解説

さいとう‐さねもり【斎藤実盛】

[?~1183]平安末期の武将。越前の人。保元の乱平治の乱には源義朝に従って戦功があったが、義朝の戦死後は平宗盛維盛に仕えた。のち、北陸で源義仲と戦って戦死。その際、老年を隠すために白髪を黒く染めて出陣したという。

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百科事典マイペディアの解説

斎藤実盛【さいとうさねもり】

平安末期の武士。代々越前(えちぜん)に住む。のち武蔵(むさし)国長井に移り,源為義・義朝に仕え,保元(ほうげん)の乱に功があった。義朝没後平宗盛に仕え,1183年平維盛(これもり)に従い木曾義仲との北陸の戦いで討死した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

斎藤実盛 さいとう-さねもり

?-1183 平安時代後期の武将。
はじめ源義朝(よしとも)に属し,保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱で戦功をたてた。のち平宗盛(むねもり)につかえる。武蔵(むさし)長井荘(埼玉県)を所領とし,長井斎藤別当と称した。寿永2年5月21日平維盛(これもり)にしたがい白髪をそめて加賀(石川県)篠原(しのはら)の戦いに出陣,源義仲(よしなか)軍の手塚光盛に討たれた。越前(えちぜん)(福井県)出身。

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朝日日本歴史人物事典の解説

斎藤実盛

没年:寿永2.5.21(1183.6.12)
生年:生年不詳
平安末期の武士。大治1(1126)年生まれか。斎藤実直の子で祖父実遠の猶子。越前国に生まれ,武蔵国長井に移り住む。源義朝に仕えて長井斎藤別当と称し,保元の乱(1156),平治の乱(1159)に参加。のち平家に仕える。治承4(1180)年10月富士川の合戦では鎌倉武士の勇敢さを述べて平家の士気を阻喪させる。寿永2(1183)年源義仲追討のために北国に発向し,加賀篠原で討死。老武者と侮られぬために白髪を黒く染め,また,故郷に錦を飾る故事を踏まえた逸話が『平家物語』に載る。『満済准后日記』には応永21(1414)年に篠原で実盛の亡霊が出現したとの記事があり,種々の伝承が流布したようである。稲の株につまずいて討たれた恨みから害虫となり,稲を食い荒らすという伝承は,農村の年中行事(虫送り)と結びつけられている。

(櫻井陽子)

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世界大百科事典 第2版の解説

さいとうさねもり【斎藤実盛】

?‐1183(寿永2)
平安末期の武士。越前の住人でのち武蔵国長井に移り,長井斎藤別当と称した。源氏の家人として為義に仕え,保元・平治の乱では義朝軍に加わった。のち平家に属し,富士川の戦(1180)では東国の案内者として平氏軍に加わって東下したといわれる。1183年源義仲追討のため北陸に下ったが,加賀篠原で手塚光盛に討たれた。享年50余歳とも60余歳とも,また70余歳ともいう。【飯田 悠紀子】
[伝承]
 加賀国篠原の合戦に死を覚悟した実盛が,故郷に錦を飾るべく大将維盛の許可をえて大将にふさわしい赤地の錦の直垂(ひたたれ)を着用し,老齢をかくすため白髪を黒く染めて奮戦した話は最も有名。

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大辞林 第三版の解説

さいとうさねもり【斎藤実盛】

?~1183) 平安末期の武将。越前の人。長井斎藤別当とも。源為義・義朝父子、のち平宗盛に仕えた。平維盛が源義仲を北陸に攻めたとき、篠原の合戦で錦の直垂に白髪を黒く染めて奮戦したが、手塚光盛に討たれた。 → 実盛

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

斎藤実盛
さいとうさねもり
(?―1183)

平安末期の武士。藤原利仁(としひと)の子孫。父は実遠(さねとお)または実直(さねなお)。出身は越前(えちぜん)(福井県)であるが、武蔵(むさし)国播羅(はら)郡長井(埼玉県熊谷(くまがや)市)に移った。1155年(久寿2)源義賢(よしかた)(為義(ためよし)の子)が源義平(よしひら)(義朝(よしとも)の子)に討たれた際は、幼い義賢の遺児義仲(よしなか)を助け、信濃(しなの)の豪族中原兼遠(かねとお)に託した。初め源為義・義朝に仕え、保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱では義朝に従ったが、平治の乱で義朝が敗れ、東国に逃れる途中で別れた。その後は平氏に従い、80年(治承4)源頼朝(よりとも)が兵をあげると、石橋山でこれと戦い、ついで平維盛(これもり)に属して富士川に出陣した。83年(寿永2)にも維盛に従って北陸に出陣し、義仲と戦ったが、加賀(かが)の篠原(しのはら)の戦いで手塚光盛(みつもり)に討たれた。その際、老年を隠すため、鬢髪(びんぱつ)を黒く染めて出陣したという。[上横手雅敬]

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世界大百科事典内の斎藤実盛の言及

【イナゴ(稲子)】より

…これら害虫の発生を予防し,また発生した虫の防除にはこれを悪霊の化したものと考える思想があったため,その霊に形どってわら人形をつくりこれを村境に送って焼き捨てる行事が古く行われ,多く虫送りと呼ばれた。恨みをのんで死んだ人として西国では斎藤(別当)実盛の名がよくあげられるが,これはイナゴを別当と呼んだことから付会されたらしい。後には鯨油が駆除に使用された。…

【源平布引滝】より

…小万は死に,念力通じて白旗は葵御前の手に戻る。平家方は九郎助がかくまう葵御前の懐胎の子を殺そうとして,瀬尾十郎,斎藤実盛を詮議に遣わすが,実盛の情けある計らいで,無事に男子が誕生し,駒王丸と名付けられ,のちに木曾義仲となる。瀬尾は小万の実父と知って,みずから小万の子手塚太郎に討たれ,実盛は手塚に,将来戦場で再会するとき,白髪を染め,若やいで勝負しようと約束して別れる。…

【虫送り】より

…6,7月の夜に行われることが多いが,土用三郎といい土用は3日目と決まっている村もある。わら人形はサネモリ(実盛)と呼ばれ,害虫は斎藤別当実盛(斎藤実盛)の御霊(ごりよう)が化したものという伝承が西日本に広く分布する。〈実盛〉は田の虫を意味するサノムシが転訛したものとも考えられている。…

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