日本歴史地名大系 「備前村」の解説 備前村びぜんむら 山形県:東田川郡櫛引町備前村[現在地名]櫛引町丸岡(まるおか)下中(しもなか)村の北西、青竜寺(しようりゆうじ)川の右岸に位置し、集落は北東に接する丸岡村と一続きになっている。地名は戦国時代、当地を領した丸岡城主押切備前守にちなむもので(筆濃余理)、楯口(たてぐち)・鍛冶屋敷(かじやしき)・道場川原(どうじようがわら)・馬場(ばば)の川(かわ)といった地名が残る。最上氏時代七ヵ村に散在した同氏家臣西堀十郎兵衛の知行地(高二六五石余)のうち四〇石余が当村にあった(元和八年「引渡小給人帳」胡蝶の道種)。元和八年(一六二二)庄内藩領となり、同九年の検地帳(櫛引町史)には「丸岡之内備前村」とみえ、高四一二石余、田方二九町八反余・畑方八町四反余・居屋敷六反余で、田は中田、畑は上畑が最も多い。 備前村びぜんむら 奈良県:天理市二階堂地区備前村[現在地名]天理市備前町初瀬(はせ)川と布留(ふる)川合流地付近に所在。北は吉田(よしだ)村。「吉田備前は水つき所」といわれた環濠集落。近世には山辺郡に属したが、備前庄の坪付によれば平安中期には城下(しきのしも)郡であったと考えられる。「多聞院日記」天正九年(一五八一)三月五日条に「持宝院ヘ備前領一反買得ノ代二石五斗宗寿渡之、相済了」、同日記天正一五年四月一五日条に「日中迄雨下了、持宝院ヘヒセン領届事申遣之」とみえる。 備前村びぜんむら 和歌山県:那賀郡岩出町備前村[現在地名]岩出町備前紀ノ川中流域の右岸近くにあり、東は高瀬(たかせ)村。村の東を根来(ねごろ)往還が南北に通り、村の西側を根来川が南流する。「続風土記」は「村名は此地を領せし人の名にて、備前名なといふより転して村名となれるならむ」と記す。中世は石手(いわで)庄に含まれたと考えられる。慶長検地高目録によれば村高七四石余。岩出組に属し、文化四年(一八〇七)の岩出組指出帳(藤田家蔵)によると田四町三反余で高七一石余、畑二反余で高三石余。二歩米一石四斗八升六合七勺でこの銀八九匁二分、御種借米は元米二石九斗七升三合でこの利米五斗九升四合七勺。家数四(庄屋・肝煎・歩行・本役各一)、人数二一(男一一・女一〇)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by