八幡八幡宮
やわたはちまんぐう
[現在地名]高崎市八幡町
法人名は八幡宮。八幡の中央、観音塚古墳東方にある。祭神は品田和気命、旧郷社。
天正一九年(一五九一)由緒書写(矢口文書)および文政六年(一八二三)由来書上(清水文書)によれば、天徳元年(九五七)村上天皇の勅命により山城国石清水八幡宮を勧請したもので、永承年中(一〇四六―五三)源義家が奥州遠征の途中当社へ祈願、凱陣後の康平六年(一〇六三)、拝殿から末社までを造営し義家の鎧・兜・弓矢や神器を奉納した。旗竿で源氏の長久を祈願したところ一夜で根葉が出て目白の神竹となり、以来源家の崇敬する社となった。源頼朝も木曾義仲追討の節当社に祈願し、大功を遂げて神殿を残らず造営した。新田義重も格別に信仰し社殿を再興したという。一三世紀中頃のものと思われる正月三〇日付関東御教書写(「榊葉集」所収)によると、板鼻別宮すなわち当社の預所は上野国守護安達景盛であった。当社の鎮座地は板鼻庄に含まれ、また東隣の大聖護国寺が別当寺であったらしく、「板鼻庄八幡宮大聖護国寺」(天正一八年八月三日「徳川家康制札写」成就院文書)などと記される。
八幡八幡宮
やわたはちまんぐう
[現在地名]春野町弘岡上 八幡
弘岡井筋沿いの小丘に鎮座する。祭神は応神天皇。弘岡上のうち八幡・川窪・西和田・谷の産土神であるが、「南路志」は「弘岡上村惣鎮守也」と記す。旧郷社。
社伝によれば天正年間(一五七三―九二)の創建で、「土佐州郡志」は吉良親貞の建立と記す。慶長二年(一五九七)の弘岡村地検帳に「八幡宮」とみえ、八幡領も散見する。そのほとんどは「神主味本孫左衛門給」で、同年の弘岡上之村中之村名寄帳によれば同神主給は一町六反余に及ぶ。そのほか地検帳は神田・祭供田として「八幡七月七日神田」「八幡八月十五日頭田」「八幡大年籠田」ほかを記す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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