八戸城跡(読み)はちのへじようあと

日本歴史地名大系 「八戸城跡」の解説

八戸城跡
はちのへじようあと

[現在地名]八戸市内丸一―三丁目

馬淵まべち川右岸の沖積低地に突きでた古扇状地形の北縁端に位置する。馬淵川新井田にいだ川の河口を押える要衝にあたり、北東には海が開けているので、海陸交通の要地でもあった。

築城年代は不明。建武(一三三四―三八)の頃根城南部氏五代政長の三男信助が中館氏を称し、当城の前身にあたる八戸中はちのへなか館に居館したとする説もあるが(南部諸城の研究)、確かな記録はない。伝承によれば寛永四年(一六二七)の根城南部氏の遠野とおの(現岩手県遠野市)転封後、盛岡藩二代藩主南部利直が自ら縄張りをして城を築いたと伝え、それと同時に町づくりが行われて、市街は同七年に完成したという(「付録伝」八戸市立図書館蔵、「八戸藩史料」)。築城した場所は古来柏崎かしわざき、または都台みやこだい京ヶ崎きょうがさきと称された高台であったといい、また築城に際しては城の屋敷の古材木が利用されたとも伝える。記録のうえでは雑書の慶安三年(一六五〇)六月一二日条に「八戸御城の井がわ桶」とある。同書の寛永二一年の記事にすでに城代の工藤主膳・野田内匠の名がみえているところからこの頃には築城されていたものと考えられる。

盛岡藩時代は城代が置かれ、その下に代官蔵奉行・町奉行がおり、さらに八戸御番衆や八戸御給人衆がいた。雑書では慶安三年から承応元年(一六五二)にかけて城の屋敷とみられる屋敷の普請工事がみえており、明暦二年(一六五六)三月二四日条には「八戸之御城・御家・御蔵等戸・障子破損、御土蔵之壁以下振落候」と地震の記事がある。承応二年四月一〇日条には立願所として「八戸御城八満同所法領」とみえ、一八日条には「八戸御館神法領」とあって法霊ほうりよう(現神社)神楽・湯立が行われている。万治三年(一六六〇)の「八戸紀行」は「いと大きにいみじく作れる城あり。殿閣たかくそひへ(中略)千尋の堀を四方にめくらし」と記している。

寛文四年(一六六四)一二月八戸藩の誕生とともに同藩主の居城と定められた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報