日本歴史地名大系 「八戸城跡」の解説
八戸城跡
はちのへじようあと
築城年代は不明。建武(一三三四―三八)の頃根城南部氏五代政長の三男信助が中館氏を称し、当城の前身にあたる
盛岡藩時代は城代が置かれ、その下に代官・蔵奉行・町奉行がおり、さらに八戸御番衆や八戸御給人衆がいた。雑書では慶安三年から承応元年(一六五二)にかけて城の屋敷とみられる屋敷の普請工事がみえており、明暦二年(一六五六)三月二四日条には「八戸之御城・御家・御蔵等戸・障子破損、御土蔵之壁以下振落候」と地震の記事がある。承応二年四月一〇日条には立願所として「八戸御城八満同所法領」とみえ、一八日条には「八戸御館神法領」とあって
寛文四年(一六六四)一二月八戸藩の誕生とともに同藩主の居城と定められた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報