八橋郡
やばせぐん
伯耆国のほぼ中央部にあり、東は久米郡、西は汗入郡に接する。現在の東伯郡の大栄町・東伯町・赤碕町、西伯郡中山町の東半部にあたる。北は日本海に面し、海岸沿いを平野、南半部を大山山麓の山・丘陵地が占め、加勢蛇川・由良川・勝田川・甲川などが北流して日本海に入る。
〔古代〕
「和名抄」東急本国郡部は郡名に「夜波志」の訓、同書郡部は八橋郷に「也八之」の訓を付しており、郡名・郷名とも「やはし」とよんだと思われる。「やばせ」とよむようになった時期は不明。「続日本後紀」承和八年(八四一)閏九月二八日条に「伯耆国八橋郡人陰陽博士正六位下春苑宿禰玉成」の名がみえる。貞観二年(八六〇)九月八橋郡など四郡は水災に襲われ、被害に遭った百姓が多数にのぼったため、翌三年六月九日庸・調・雑徭などの課役が二年間免除された(三代実録)。「和名抄」東急本は方見・由良・荒木・古布・八橋・篦津の六郷を載せる。郡家は郡名を負う八橋郷に置かれていたと考えられる。現東伯町槻下の七世紀後半の寺院跡斎尾廃寺に近い中尾の伊勢野遺跡からは古代の建物跡が発掘され、槻下の大高野遺跡は八―九世紀の郡倉跡と推定されている。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる山陰道「清水」駅は同町八橋の清水付近に比定され、古代の官道は伯耆国府(現倉吉市)から槻下付近を経て清水駅に達していたと推定される。当郡の伝馬は五疋と定められていた(同書)。加勢蛇川中流、現東伯町別宮一帯は同書兵部省諸国馬牛牧条にみえる古布馬牧に比定される。加勢蛇川・勝田川流域の扇状地では条里の跡を示す方格地割が確認されている。
〔中世〕
古布馬牧を含む古布郷は平安末には最勝寺(現京都市左京区)領となり、仁平元年(一一五一)郷内の最勝寺末寺、転法輪寺(現東伯町)領の検注が実施されている。そのほか平安期以降久永御厨・方見郷・上郷・大井下郷・野津郷・由良郷などが成立した。元弘三年(一三三三)閏二月隠岐を脱出した後醍醐天皇は名和長年らに迎えられて船上山(現赤碕町)に上って挙兵。同月二九日の船上合戦に勝利した天皇軍は馳せ参じた武士らとともに五月同山から京都へ向かったとされる。室町から戦国期に八橋城(現東伯町)をはじめ妙見山城(現同上)・岩井垣城(現中山町)・細木原城(現赤碕町)などが築かれた。延文二年(一三五七)岩井垣城主篦津氏の後援により、曹洞宗退休寺(現中山町)が創建されたといい、光徳寺(現東伯町)は出雲守護代尼子持久の帰依を受け曹洞宗寺院として再興されたと伝える。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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