生野村(読み)いくのむら

日本歴史地名大系 「生野村」の解説

生野村
いくのむら

[現在地名]福知山市字生野

由良川の支流土師はぜ川の中流にあり、村中を京街道が通る。土師川の上流は両岸の山が迫り、峡谷が多いが、この辺りには相当広い段丘があり、北方は土師川が急に西へ回って、街道の障害ともなっている。東は萩原はぎわら村、西は正後寺しようごじ村、南は上野うえの村、北は堀越ほりこし村に接する。「丹波志」には「上野・生野・萩原一面ノ平地也、古ハ上野小路トモ云」とある。

古代山陰道はこの谷を通らず、多紀たき郡から氷上ひかみ郡を経て但馬(以上現兵庫県)へ通じていたので、「延喜式」には駅としての生野の名はみえないが、京都と奥丹波・丹後を結ぶ主要な交通路に沿っており、近世には宿場としても栄えた。

生野の名は古く、「金葉集」の小式部内侍の歌によって知られ、「平家物語」巻三(大臣流罪)に、平清盛によって流罪に処せられた大納言資賢が、「夜中に九重の内をまぎれ出て、八重たつ雲の外へぞおもむかれける。

生野村
いくのむら

[現在地名]北区道場町生野どうじようちよういくの

塩田しおた村の東にある有馬ありま郡の村。村内を武庫むこ川が東流する。元禄郷帳に「古者塩生野しりちいく野村」と記すように、古くシリチ村といった。慶長国絵図に尻地村とみえ高二四四石。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳には「志りち村」とあり同高。正保郷帳は「生塩野しりち村」と記し、高は三九二石に増加している。これは慶長七年―元和六年(一六〇二―二〇)の領主丹波福知山藩主有馬豊氏の増高が加えられたためで、延宝六年(一六七八)の塩生野村明細帳(太福寺文書)には高三九二石のうち一四二石は有馬玄蕃(豊氏)の増高とされている。

生野村
いかのむら

[現在地名]善通寺生野本町いかのほんまち一―二丁目・生野町文京町ぶんきようちよう一―四丁目・南町みなみまち一丁目

金倉かなくら川の中流域左岸、善通寺村の東に位置し、南部には小高い磨臼すりうす山などがある。古代・中世生野郷の遺称地。多度たど郡に属し、寛永国絵図に村名がみえ、大麻おおさと合せて生野郷として高付され高一千八〇八石余。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では生野村と記され高一千七七石余、うち新田悪所九〇石。同一八年の小物成は綿五〇匁一分(山崎領小物成帳)。元禄一一年(一六九八)の弘田組明細帳内書抜(鎌田博物館蔵)によれば溜池地蔵じぞう池・熊野くまの池のほか小池一四、出水一四。「西讃府志」によると地蔵池は生野・大麻の間にあり、周囲八町・漑田二三町五反、熊野池は周囲六町三六間・漑田二七町七畝。

生野村
しようのむら

[現在地名]福井市生野町

文殊もんじゆ山西麓、角原つのはら村の南にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では山内やまのうち郷に含まれる。正保郷帳から村名がみえ、同帳によれば田方二二七石余・畠方一三一石余。福井藩領で、文政六年(一八二三)の給人地方渡名寄帳によると大谷綱次郎ほか四名の知行所

生野村
しようのむら

[現在地名]野津町藤小野ふじおの 生野

木所きところ村の南、西流する野津川南岸にある。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には生野村が木所村など四ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高四五石余。下ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方一五石余・畑方三〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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