出雲町(読み)いずもちよう

日本歴史地名大系 「出雲町」の解説

出雲町
いずもちよう

[現在地名]中央区銀座ぎんざ八丁目

竹川たけかわ町の南に続く両側町。東は三十間堀さんじつけんぼり八丁目、南は芝口金六しばぐちきんろく町・芝口北紺屋しばぐちきたこんや町、西は内山うちやま町。町名は慶長八年(一六〇三)の市街整備の折に役夫を出した国名をとって付けられたという(徳川実紀)。承応江戸絵図に「いつも丁」とみえる。本来はしん橋北詰まで出雲町であったが、宝永七年(一七一〇)芝口御門造営のため町の南半分は御用地として召上げられた。享保九年(一七二四)芝口御門が廃止となり、その跡地芝口金六町・芝口北紺屋町ができた(「徳川実紀」・沿革図書・「京橋繁昌記」など)


出雲町
いずもちよう

[現在地名]伏見区深草大亀谷金森ふかくさおおかめだにかなもり出雲町

藤森ふじのもり神社の東南から南下する通りと、旧外堀跡との交差地点の北。「豊公伏見城ノ図」では、この地域にやや混乱がある。同じ豊臣時代の復元図である伏見城下総絵図によると、南北に走るこの通りが外堀と交差する地点の西北に金森出雲守屋敷があり、更に西へ走る道路を隔てた北側の町裏に金森出雲守屋敷がある。北側の金森屋敷と南北の通りを挟んで向う位置に、中川内膳の屋敷が描かれ、現在の深草大亀谷内膳ないぜん町の町名は、この内膳屋敷にちなむものであろう。


出雲町
いずもまち

[現在地名]上越市南本みなみほん町一丁目

伊勢いせ町の北に続く北国街道筋の両側町。正徳年間(一七一一―一六)の高田町各町記録(榊原家文書)には「出雲町ト申名由緒不存候」とあるが、高田開府の際の、町奉行の一人出雲守某の竿入に由来するという伝えがある。町の長さおよそ二八間(高田市史)。天和期(一六八一―八四)の調によると役を負担する町で、屋敷数は伊勢町と合せて四三、伊勢町名主支配(頸城郡誌稿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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