刑部村(読み)おさかべむら

日本歴史地名大系 「刑部村」の解説

刑部村
おさかべむら

[現在地名]長柄町刑部

金谷かなや村の西に位置し、一宮いちのみや川が東流する。篠網しのあみ稲塚いなつか谷・ふき谷・月川つきがわ谷・辺田へた三沢みさわ谷の六谷からなるが、うち篠網は江戸時代には独立した村としてもみえる。これらの惣名である刑部は「和名抄」に記す上総国長柄郡刑部郷の遺称地で、中世には刑部郡・刑部郷などとみえ、また広域通称名としても用いられるが、寛永一〇年(一六三三)当時刑部郡とする例がなおみられ、江戸時代は当村のみならず鴇谷とうや村を含む(関東真言宗新義本末寺帳)。文禄三年(一五九四)八月二一日の長南領刑武郷検地帳(旧池座家文書)では上田二四町三反余(石盛一一)・中田一九町五反余(同九)・下田二八町四反余(同六)、上畑一三町余(石盛七)・中畑一四町二反余(同四)・下畑一七町七反余(同二)・屋敷五町三反余(同一〇)、歩免引合せ七七石余により田六一四石余・畑二一二石余。記載百姓六〇人余のうち新兵衛・四郎兵衛・三郎兵衛・内蔵助ら四人の所持反別が大半を占め、ほかは分付百姓であるが、出雲・玄蕃・治部・兵庫・隼人・左京助・内匠助などの武士と思われる者、また月輪げつりん寺・勝蔵しようぞう寺・慈眼じげん寺・正福しようふく寺・雲長うんちよう院・勝明しようみよう院・東泉とうせん院・金剛こんごう院・善如ぜんによ院・宝珠ほうじゆ院・竜円房・一円など仏教関連も多くみられる。なお茶筅売と考えられる「ちやせん」、遊芸人を思わせる兼船も記載される。同年の上総国村高帳に村名がみえ、高七五九石。

元禄郷帳では高七〇八石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高七五八石余で家数一七八、幕府領と旗本岡松・布施・瓦林・駒井領および御先手同心の給知。


刑部村
おしかべむら

[現在地名]津市押加部おしかべ町・西古河にしふるかわ町・はつ町二―三丁目・しん町二―三丁目・神納かのう町・大園おおぞの町・桜田さくらだ

古川ふるかわ村の西にあり、西から北を蛇行する安濃あのう川に囲まれる。元徳元年(一三二九)安東郡専当沙汰文には「押加部」とみえ、文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳には「形部」と誤記され、慶安郷帳(明大刑博蔵)には「刑部村」とある。

康永三年(一三四四)の法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)に「石田郷五条四刑部里廿六坪」「同郷四条四刑部里廿五坪」と安濃郡条里坪名がみえる。刑部は「古事記」允恭天皇段に「大后の御名代と為て、刑部を定め」、また「日本書紀」同条に「忍坂大中姫を立てて皇后とす。


刑部村
おしかべむら

[現在地名]総社市刑部

阿部あべ村の東に位置する。「和名抄」の賀陽郡刑部おさかべ郷の遺称地で、中世には国衙領の刑部郷が一帯に成立する。永仁六年(一二九八)の書改を伝える服部郷図(県総合文化センター蔵)に、久米くめ保の西、服部はつとり郷の北西隈に刑部郷が記される。永享元年(一四二九)の備中国惣社宮造営帳写(池上文書)に、棟別一間に二〇文を課せられた国衙領に郷名がみえ、また遷座の際に「ヲシカヘ」は後陣をつとめた。


刑部村
おさべむら

[現在地名]八木町字刑部

多国たこく山の北にある。東は青戸あおと村、南は西田にしだ村・北広瀬きたひろせ村、北から西にかけて氷所ひどころ村・池上いけがみ村に接する。亀山藩領。古代刑部おさかべ(和名抄)の地、中世には吉富よしとみ新庄内刑部郷として推移した。


刑部村
おさかべむら

[現在地名]八尾市刑部一―四丁目・刑部

中田なかた村の南東、玉串たまくし(旧大和川の一流)の左岸に沿っていたが、大和川付替え以後は、河床に山本やまもと新田・柏村かしむら新田が成立。村の北端を信貴しぎ道が通る。村名は、古代の若江郡刑部郷(和名抄)を継承する。村高は正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳で五二三石余、延宝年間(一六七三―八一)の河内国支配帳では五三五石余、うち一二石弱は改出(新田)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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