昭和・平成期の俳人 「寒雷」主宰;青山学院女子短期大学名誉教授。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
俳人。本名健雄(たけお)。東京生まれ。苦学して東京高師第一臨時教員養成所国語漢文科卒業。埼玉県の粕壁(かすかべ)中学教諭となる。短歌に親しんでいたが、村上鬼城(きじょう)の句に接して俳句に関心をもち1931年(昭和6)水原秋桜子(しゅうおうし)に師事。『馬酔木(あしび)』発行所に勤めながら40年東京文理科大学(後の東京教育大学)卒業。のち青山学院女子短大教授。初め叙情的、唯美的な句風であったが、しだいに生活に密着した方向に転じ、内面の苦悩を、俳句という短詩型文学に生かそうと努めたため、表現が晦渋(かいじゅう)となり、39年ごろ中村草田男(くさたお)、石田波郷(はきょう)とともに難解派とか人間探求派とかよばれた。「鰯雲(いわしぐも)人に告ぐべきことならず」がこのころの句。なお人間的凡愚の情をたたえ、ユーモラスな表現をとる句があって、その作品を親しみ深いものにしている。芭蕉(ばしょう)や一茶(いっさ)の作品を、作り手としての立場から評釈した業績も注目される。句集に『寒雷』(1939)、『颱風眼(たいふうがん)』(1940)など、評釈に『芭蕉講座発句篇(へん)』3冊(1943~48)、『一茶秀句』(1964)など。夫人知世子(ちよこ)も女流俳人。門下から金子兜太(とうた)、森澄雄ほか優れた俳人を出している。
[井上宗雄]
『『加藤楸邨全集』全13巻(1980~82・講談社)』▽『田川飛旅子著『加藤楸邨』(1963・桜楓社)』
俳人。東京生れ。本名健雄。1931年,粕壁中学在職時代,水原秋桜子に師事し《馬酔木(あしび)》の典雅な短歌的抒情句の一翼を担う新鋭俳人として活躍した。37年,妻子を伴って上京,東京文理大国文科に入学。都塵の中の生活と日中戦争の暗い世相の中で,俳句と生活を密着させ人間の内面の表現を希求,句風はくらく,孤独苦渋の色を深め,中村草田男らとともに人間探求派と呼ばれた。39年第1句集《寒雷》を上梓,翌年俳誌《寒雷》を創刊した。戦中は芭蕉研究に没頭。〈真実感合〉を説いた。戦後は戦争の傷痕や闘病の中で生を見つめ,《吹越》(1976)以後茫洋無礙(ぼうようむげ)の境をひらいた。〈鮟鱇(あんこう)の骨まで凍ててぶちきらる〉(《起伏》1948)。
執筆者:川名 大
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…生活の誠実を地盤としたところの俳句を求める〉との意図を掲げる。〈人間探求派〉と呼ばれた主宰者,加藤楸邨(しゆうそん)(1905‐ )は,〈真実感合〉の方法を提唱,生き生きとした実感を,対象と自己を一体にした発想において把握しようとした。楸邨のその志向のもとに,田川飛旅子(ひりよし),金子兜太(とうた),森澄雄らが輩出した。…
※「加藤楸邨」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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