中村草田男(読み)ナカムラクサタオ

デジタル大辞泉 「中村草田男」の意味・読み・例文・類語

なかむら‐くさたお〔‐くさたを〕【中村草田男】

[1901~1983]俳人中国アモイの生まれ。本名、清一郎。「ホトトギス」の同人新興俳句に対して批判的立場をとった。のち、「万緑」を創刊主宰句集長子」「銀河依然」「美田」など。

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共同通信ニュース用語解説 「中村草田男」の解説

中村草田男

中村草田男なかむら・くさたお 1901~83年。石田波郷いしだ・はきょう加藤楸邨かとう・しゅうそんらと共に人間探求派の俳人と呼ばれた。俳誌「萬緑ばんりょく」を創刊、主宰。代表句は〈降る雪や明治は遠くなりにけり〉〈万緑の中や吾子あこの歯生え初むる〉。

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精選版 日本国語大辞典 「中村草田男」の意味・読み・例文・類語

なかむら‐くさたお【中村草田男】

  1. 俳人。愛媛県出身。本名清一郎。東京帝大卒。高浜虚子師事。新鮮な抒情と汎神的、求道的な句風を樹立、人間探求派の代表的存在となる。「万緑」主宰。句集に「長子」「火の鳥」など。明治三四~昭和五八年(一九〇一‐八三

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20世紀日本人名事典 「中村草田男」の解説

中村 草田男
ナカムラ クサタオ

昭和期の俳人 成蹊大学名誉教授。



生年
明治34(1901)年7月24日

没年
昭和58(1983)年8月5日

出生地
中国・福建省廈門

出身地
愛媛県松山市

本名
中村 清一郎(ナカムラ セイイチロウ)

学歴〔年〕
東京帝国大学国文科〔昭和8年〕卒

主な受賞名〔年〕
紫綬褒章〔昭和47年〕,勲三等瑞宝章〔昭和49年〕,芸術選奨文部大臣賞〔昭和53年〕「風船の使者」,日本芸術院賞恩賜賞〔昭和59年〕

経歴
大学卒後、成蹊学園に就職。高校・成蹊大学政経学部教授として33年間務め、昭和42年定年退職し、44年名誉教授。俳句は昭和4年高浜虚子に入門し、「ホトトギス」に投句のかたわら東大俳句会に参加。9年「ホトトギス」同人。この頃より新興俳句運動に批判的で、加藤楸邨石田波郷らとともに“人間探求派”と称せられた。21年主宰誌「万緑」を創刊。以後、伝統の固有性を継承しつつ、堅実な近代化を推進し、現代俳句の中心的存在となり、現代俳句協会幹事長、俳人協会初代会長を務めた。また31年より東京新聞俳壇選者、34年より朝日新聞俳壇選者。句集「長子」「火の鳥」「万緑」「来し方行方」「銀河依然」「母郷行」「美田」などのほか、「俳句入門」、メルヘン集「風船の使者」など著書多数。「降る雪や明治は遠くなりにけり」の句で知られる。「中村草田男全集」(全18巻・別巻1 みすず書房)がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中村草田男」の意味・わかりやすい解説

中村草田男
なかむらくさたお
(1901―1983)

俳人。明治34年7月24日、中国福建省厦門(アモイ)生まれ。本名清一郎。東京帝国大学独文科から国文科に転じ、正岡子規(しき)を卒論とする。1928年(昭和3)『ホトトギス』を読み、翌年、東大俳句会に入り、水原秋桜子(しゅうおうし)の指導を受けた。その後『ホトトギス』の新人として台頭、評論にも活躍して1934年、同人に推される。当時の新興俳句運動には終始批判的態度を通し、日野草城(そうじょう)のモダニズムを徹底的に非難した。石田波郷(はきょう)、加藤楸邨(しゅうそん)らとともに人間探求派、難解派とよばれる。第二次世界大戦中は「自由主義者」と中傷、圧迫された。『ホトトギス』を離れ、1946年(昭和21)『万緑(ばんりょく)』を創刊、主宰。生命賛歌というべき作品が多い。社会性俳句、前衛俳句を批判して、現代俳句の指導的存在でもあった。昭和58年8月5日没。句集に『長子』(1936)、『火の島』(1939)、『万緑』(1941)など、童話に『ビーバーの星』『風船の使者』など。成蹊大学教授。母校の東京・南青山の青南小学校に「降る雪や明治は遠くなりにけり」の句碑がある。

[鷹羽狩行]

 万緑の中や吾子(あこ)の歯生え初むる

『『新訂俳句シリーズ 人と作品14 中村草田男』(1980・桜楓社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「中村草田男」の意味・わかりやすい解説

中村草田男 (なかむらくさたお)
生没年:1901-83(明治34-昭和58)

俳人。父の任地,中国厦門(アモイ)の日本領事館に生まれる。本名清一郎。1929年高浜虚子に師事,東大俳句会にて水原秋桜子らの指導を受けた。33年東大国文科卒。36年《長子(ちようし)》を上梓,清新な抒情と浪漫性を帯びた青春俳句によって秋桜子,山口誓子ら4S以後の《ホトトギス》の新人として川端茅舎,松本たかしと共に登場した。内面の全人間的要請を有季定型の伝統形式を通して問うという一貫した理念を有し,素材と表現の拡充新化に傾斜した新興俳句や,客観写生・花鳥諷詠一辺倒の《ホトトギス》俳句にくみせず独自の立場をとった。《火の島》(1939),《万緑》(1941)で汎神論的生命賛歌の本領を発揮,季語を象徴的に活用するなど,加藤楸邨石田波郷と共に人間探求派と呼ばれた。46年俳句誌《万緑(ばんりよく)》を創刊,戦後俳句の散文的傾向に抗して,人間的要請の〈文学〉と,俳句固有の方法の〈芸〉の統一を希求した。〈降る雪や明治は遠くなりにけり〉(《長子》)。
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百科事典マイペディア 「中村草田男」の意味・わかりやすい解説

中村草田男【なかむらくさたお】

俳人。本名清一郎。中国厦門(アモイ)日本領事館で生まれた。東大国文科卒。高浜虚子に師事し《ホトトギス》同人として活躍,石田波郷加藤楸邨とともに人間探究派と呼ばれた。1946年俳誌《万緑》を創刊主宰。句集《長子》《万緑》《銀河依然》《美田》など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中村草田男」の意味・わかりやすい解説

中村草田男
なかむらくさたお

[生]1901.7.24. 中国,アモイ
[没]1983.8.5. 東京
俳人。本名,清一郎。 1933年東京大学国文学科卒業。成蹊大学教授。 29年東京大学俳句会に入り水原秋桜子の指導を受け,34年『ホトトギス』同人。 46年『ホトトギス』を離脱して『万緑 (ばんりょく) 』を創刊主宰,人間性総体の表現を目指す独自の句風を完成した。句集『長子』 (1936) ,『銀河依然』 (53) ,『母郷行』 (56) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中村草田男」の解説

中村草田男 なかむら-くさたお

1901-1983 昭和時代の俳人。
明治34年7月24日清(しん)(中国)厦門(アモイ)生まれ。昭和9年高浜虚子の「ホトトギス」同人となり,21年「万緑」を創刊,主宰。人間探究派とよばれる。成蹊大教授,俳人協会初代会長をつとめる。58年芸術院賞。昭和58年8月5日死去。82歳。東京帝大卒。本名は清一郎。句集に「長子」「銀河依然」など。
【格言など】降る雪や明治は遠くなりにけり(「長子」)

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367日誕生日大事典 「中村草田男」の解説

中村 草田男 (なかむら くさたお)

生年月日:1901年7月24日
昭和時代の俳人。成蹊大学教授
1983年没

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世界大百科事典(旧版)内の中村草田男の言及

【万緑】より

…俳句雑誌。中村草田男主宰。1946年10月創刊。…

※「中村草田男」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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