勝因寺(読み)しよういんじ

日本歴史地名大系 「勝因寺」の解説

勝因寺
しよういんじ

[現在地名]山形市鉄砲町一丁目

江戸時代に城下町であった鉄砲てつぽう町の宗福そうふく院東方にある。高宝山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来。弘安九年(一二八六)鎌倉建長寺大江の建立と伝え、山形地方で最も早く創建された禅宗寺院の一つ。室町時代に五山十刹諸山の制度が確立した折、出羽国には五山はなかったが、当寺は関東十刹に任じられた(欠年九月四日付足利義澄御内書「鹿苑日録」天文五年四月一六日条)。創建当時は建長寺の末寺であったが、寛文(一六六一―七三)頃京都妙心寺の末寺となった。最上氏時代城下絵図では三の丸内稲荷いなり口門の北西部に寺名がみえる。


勝因寺
しよういんじ

[現在地名]上野市山出

宝盛山真珠院と号し、真言宗豊山派いわたにの峠頂にあり、もと東側丘麓にあったが溜池造成で移転したという。当地の修験者小天狗清蔵墓が建てた久米くめ村の大福だいふく寺末であった(伊水温故)。清蔵は天正伊賀乱で焼失した敢国あえくに神社や上野天神宮をはじめ社寺の復興に努め当寺に隠棲して寛永九年(一六三二)に没し、境内に墓がある。彼が大福寺のものと交換した慶長一七年(一六一二)梵鐘に「南都天下一作久怡 弥左衛門、四十九善右衛門・源七・新四郎」とあり、「いかけノ弥左衛門」といわれた久怡は茶人でもあった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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