改訂新版 世界大百科事典 「北オセティア共和国」の意味・わかりやすい解説
北オセティア[共和国] (きたオセティア)
Severnaya Osetiya
ロシア連邦南西部,北カフカスの共和国。ソ連邦解体までは北オセティア自治ソビエト社会主義共和国であった。面積8000km2,人口71万0275(2002)。首都はウラジカフカス(1931-90年はオルジョニキーゼ)。大カフカス山脈中央部の北斜面の山地に位置し,テレク川流域に盆地がある(ちなみに大カフカス山脈をはさんで隣接する南オセティアはグルジア共和国内の自治州で,1922年4月に形成され,面積3900km2,2004年人口4万9200,州都はツヒンバリ)。
住民の主体をなすオセット人は北カフカスの原住諸族と流入したスキタイ,サルマート,アランなどのイラン語系諸族の混交により形成された人々で,オセット語を話す。6世紀ビザンティンからこの地に入ったキリスト教は,10世紀に広く流布した。13世紀にはモンゴルの侵攻をうけ,17~18世紀には少数がイスラム化した。オスマン・トルコ,クリミア・タタールとの対抗のなかで,ロシア帝国は1774年北オセティアを併合し,1801年には南オセティアをも併合。1784年要塞ウラジカフカスを建設し,カフカス諸民族への軍事的支配の拠点とした。1875年ウラジカフカス鉄道(ウラジカフカス~ロストフ間)が完成し,この地方の経済は大きな発展期を迎える。十月革命後は反革命軍のデニキン軍等との激しい内戦の末,1920年3月赤軍により解放され,ソビエト政権が樹立された。1924年7月7日北オセティア自治州が形成され,36年12月自治共和国となった。
民族構成(1989)はオセット人約53%,ロシア人約30%,イングーシ人5%,アルメニア人とグルジア人が各2%前後等である。農業ではトウモロコシ,小麦,野菜,園芸作物の栽培と畜産が中心で,豊富な鉱物,水力資源を利用した非鉄金属,機械,冶金,ガラスのほか,木工,食品工業が見られる。
ペレストロイカ以後
北オセティアは,ソ連邦解体後,92年3月ロシア連邦条約でロシア連邦を構成する共和国となった。ペレストロイカの中で,南オセティアをめぐるオセット人とグルジア人の衝突,北オセティアでのオセット人とイングーシ人の衝突が起こった。首都の旧称ウラジカフカスの復活はカフカス諸民族の反発を呼んだ。90年9月南オセティア自治州ソビエトが〈南オセティア・ソビエト共和国〉を宣言,12月グルジア最高会議は南オセティア自治州廃止法,非常事態宣言を採択した。91年1月ゴルバチョフは〈連邦内務省軍を除く武装部隊の南オセティア撤退〉を命じ,グルジアは拒否した。グルジア独立への動きが高まると,連邦中央は南オセティアに介入し牽制した。92年1月の軍事クーデタにより,3月シェワルナゼがグルジアの政権を握った。
執筆者:高橋 清治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報