アラン(読み)あらん(英語表記)Alain

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アラン」の意味・わかりやすい解説

アラン(哲学者、評論家)
あらん
Alain
(1868―1951)

フランスの哲学者、評論家。本名はエミール・オーギュスト・シャルチエEmile Auguste Chartierで、筆名は中世詩人アラン・シャルチエにちなむ。3月3日、ノルマンディーのモルターニュに生まれる。ミシュレ校時代、哲学に目を開かれ、高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)ではサント・ブーブ、ルナンテーヌ、ブリュンチエールらに熱中し、のちアリストテレス、プラトン、とくにカントに深い感銘を得た。ドレフュス事件ジャーナリズムに初めて執筆し、1900年ルーアンの高等中学校(リセ)で哲学教授となる。ルーアンでの生徒の一人アンドレ・モーロアの『アラン』(1949)によれば、教師としての彼は、抽象的な理論よりも身近な実例をあげ、それを分析することにほとんどの時間を割き、また「偉大な書物のなかにはかならず哲学がある」との信念に基づいて、ホメロスバルザックを読ませたという。ルーアン滞在中にアランの筆名で土地の新聞に、日々のできごとについての考察「語録」を掲載し、この短文形式が彼の思想を表現する最適なものとなった。パリのアンリ4世校在任中、第一次世界大戦が起こり、46歳の彼も志願兵として従軍し、その体験が『マルス、または裁かれた戦争』となり、愛国者の憤激を買った。『精神と情熱に関する81章』(1917)、『諸芸術の体系』(1920)もこの間に執筆された。1951年6月2日、パリ近郊ルベジネで83歳で没するまで多彩な著述活動を続け、主著に『幸福論』(1925)、『教育論』(1932)、『人間論』(1947)などがある。

[谷長 茂 2015年5月19日]

『中村雄二郎・串田孫一訳『アラン著作集』全10巻(1980~1983/新装復刊・1997・白水社)』『モーロワ著、佐貫健訳『アラン』(1964・みすず書房)』


アラン(Marie-Claire Alain)
あらん
Marie-Claire Alain
(1926―2013)

フランスの女流オルガン奏者。パリ音楽院で名手マルセル・デュプレに学ぶ。1950年ジュネーブ、1951年パリの両国際コンクールで第1位を得、女流としては例外的に若くして活躍の場を確保、バッハのオルガン曲の全曲録音で世界的に名を知られた。明快さを尊ぶラテン的気質は、バッハよりフランスのオルガン曲にいっそう適している。1972年(昭和47)初来日したのがきっかけで1970年代に三度来日、日本にオルガン音楽を普及させるのに貢献した。

[岩井宏之]


アラン(アラマン)
あらん

アラマン

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アラン」の意味・わかりやすい解説

アラン
Alain

[生]1868.3.3. モルターニュ
[没]1951.6.2. パリ近郊ルベジネ
フランスの哲学者。本名 Émile-auguste Chartier。各地の高校教授を歴任し,ルーアンでプロポ proposと題する短文を新聞に毎日寄稿し,これがやがて著作の様式の柱となった。のちにパリのアンリ4世高校教授となり,第1次世界大戦を予告し,開戦とともに一兵卒として従軍,戦場で『精神と情熱とに関する八十一章』Quatre-vingt-un chapitres sur l'esprit et les passions(1917),『芸術の体系』Système des beaux-arts(1920)を書いた。ジュール・ラニョーの影響を受け,ルネ・デカルトやベネディクトゥス・デ・スピノザに傾倒する合理主義者であるが,独断的体系を拒み,短文をもって人々の思索を促すモラリストであった。アランのいう理性は単に哲学の原理にとどまらず,生全体の根底となる良識であった。著作は広い領域にわたり,哲学者のみならず文学者にも深い影響を残している。ほかの著作に『幸福論』Propos sur le bonheur(1928),『イデー』Idées(1932),『わが思索のあと』Histoire de mes pensées(1936)など。

アラン(伯家)[スコットランド]
アラン[はくけスコットランド]
Arran, Earls of

おもにハミルトン家によって継承されたスコットランド貴族の家柄。 1467年トマス・ボイドが叙せられたのに始るが,彼の未亡人がハミルトン家に再婚したため,以後称号は同家に移り,彼女の子ジェームズ (1477?~1529) がハミルトン系の初代伯になった。彼はジェームズ5世の幼少時代には摂政に準じる地位にあった。その長男の2代伯ジェームズ (75没) もメアリー・スチュアートの在フランス時代に摂政となり,ジェームズ6世 (イングランド王としては1世) 治世初期にも摂政会議の一員に選ばれた。その子の3代伯ジェームズ (30~1609) はメアリー・スチュアートの花婿候補の一人であったが,晩年は精神の健康を害したため,いとこのジェームズ・スチュアートがアラン (伯)を称したが,1609年3代伯の死後,甥の2代ハミルトン侯ジェームズ (1589~1625) が継承し,ハミルトン (侯・公家)に吸収された。

アラン[リール]
Alain de Lille; Alanus de Insulis

[生]1128頃.リール?
[没]1202. シトー
全科博士の名をもつ博学の神学者,詩人。パリで学び教壇に立ち,晩年をシトー修道院でおくった。学院の枠をこえた説教法を考え,道徳の腐敗を憤り,圧力を増してきたカタリ派,ワルド派の異端とユダヤ教,イスラム教を論駁した。シャルトル学派からプラトン的影響を受け,特にボエチウスに依りつつ,理性的根拠によって異教徒を論駁しようとした。『異端反駁公教信仰論』 De fide catholica contra haereticosの試みは『神学公理』 Maximae theologiaeでさらに徹底され,数学的方法を導入して,一者であり原理である神に絶対確実な論証を与えようとした。この態度はニコラ・ダミアンとともに,デカルトやなかんずくスピノザの先駆として注目に値する。また詩人としては『反クラウディアヌス詩集』 Anticlaudianusと,道徳的退廃を否定し自然を賛美する『自然嘆詠集』 De planctu naturaeを残している。

アラン
Arun

イギリスイングランド南東部,ウェストサセックス県南部の地区。アラン川流域,イギリス海峡に臨む。北部に白亜サウスダウンズ丘陵があり,海岸平野にはボグナーリージス,リトルハンプトンなどの海浜保養地がある。歴史の古い町アランドル近郊には,1066年のノルマン・コンクェスト直後に建設されたアランドル城がある。面積 221km2。人口 14万787(2001)。

アラン(伯)
アラン[はく]
Arran, James Stewart, Earl of

[生]?
[没]1596
スコットランドの貴族。2代オーヒルトリー男爵の次男。青年時代ネーデルラントで対スペイン戦に従軍。 1580年ジェームズ6世 (イングランド王としては1世) に仕え,レノックス公 (初代) に協力して摂政モートン伯 (4代) の失脚をはかり,81年枢密顧問官。いとこにあたる3代伯ジェームズ・ハミルトンが精神に異常をきたしたのを口実に,アラン伯を名のったが,同年ルースベン事件で失脚。 83年王がルースベン派から脱出すると形勢を逆転して実権を握り,84年大法官に就任。尊大な性格も手伝ってハミルトン一族その他貴族の反感を買い,イングランドとの関係調整にも失敗して,86年追放された。ほどなく帰国したが,モートン伯の甥 J.ダグラスに暗殺された。

アラン(伯家)[アイルランド]
アラン[はくけアイルランド]
Arran, Earls of

アイルランドの貴族の家柄。スコットランドの家系とは無関係。バトラー家の一員で,オーモンド (公)の孫オソリー伯の次男であるチャールズ・バトラーが,1693年アラン伯に叙せられたが,彼一代で終った。次に,1758年アーサー・ゴアに授けられ,以後その子孫に継承された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

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