北条長時(読み)ほうじょう・ながとき

朝日日本歴史人物事典 「北条長時」の解説

北条長時

没年:文永1.8.21(1264.9.12)
生年寛喜2.2.27(1230.4.11)
鎌倉中・後期の武将。父は重時,母は平時親の娘,妻は北条時盛の娘。四郎と称す。左近将監,武蔵守,法名は専阿(観恵)。宝治1(1247)年父重時のあと六波羅探題となる。康元1(1256)年に執権時頼,連署重時があいついで出家したため,鎌倉に呼び戻され長時が幼い時宗の「代官」として6代執権となった。文永1(1264)年に出家し,鎌倉浄光明寺で死んだ。歌人でもあった。父重時が長時に与えた家訓『六波羅殿御家訓』『極楽寺殿御消息』は著名。奈良西大寺の叡尊が鎌倉下向のとき,母・妻と受戒。のち極楽寺に忍性が入り,菩提所浄光明寺とともに律宗寺院に改宗している。

(湯山学)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北条長時」の意味・わかりやすい解説

北条長時
ほうじょうながとき

[生]寛喜2(1230)
[没]文永1(1264).8.21. 鎌倉
鎌倉幕府の6代執権 (在職 1256~64) 。重時の子。寛元3 (45) 年 12月左近将監,宝治1 (47) 年7月六波羅探題。宗尊親王の将軍就任にも活躍し,建長8 (56) 年6月幕府評定衆,7月武蔵守。康元1 (56) 年 11月時頼隠退に際して執権に就任。文永1 (64) 年7月病を得て辞職,のち出家して法名を専阿と称し,泉ヶ谷浄光明寺に住した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北条長時」の解説

北条長時 ほうじょう-ながとき

1230-1264 鎌倉時代の武将。
寛喜(かんぎ)2年2月27日生まれ。北条重時の子。六波羅(ろくはら)探題北方や評定衆をつとめる。康元元年執権北条時頼が出家,あとをつぐ時宗が幼少だったため6代執権となる。極楽寺の忍性(にんしょう)に帰依(きえ)した。文永元年8月21日死去。35歳。通称は陸奥四郎。姓は赤橋とも。法名は専阿,観恵。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北条長時」の解説

北条長時
ほうじょうながとき

1230.2.27~64.8.21

鎌倉中期の幕府執権。父は重時,母は平時親の女。陸奥四郎と称する。1247年(宝治元)六波羅探題北方となり,56年(康元元)鎌倉に戻って評定衆,さらに執権となったが,北条時宗が幼少の間の代官としての役割であった。64年(文永元)出家,執権を北条政村に譲って,病没。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

367日誕生日大事典 「北条長時」の解説

北条長時 (ほうじょうながとき)

生年月日:1230年2月27日
鎌倉時代前期の鎌倉幕府第6代の執権
1264年没

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