デジタル大辞泉 「崇福寺」の意味・読み・例文・類語
そうふく‐じ【崇福寺】
長崎市
横岳山を山号とする臨済宗大徳寺派の寺院。本尊は釈迦三尊。当寺は仁治元年(一二四〇)宋から帰国した随乗房湛慧が大宰府
文永八年入宋僧南浦紹明が筑前
近江大津宮時代、天智天皇の発願により造立されたと伝える寺院。
〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉
平安時代成立の「延暦僧録」「崇福寺綵錦宝幢記」「三宝絵詞」「扶桑略記」「今昔物語集」などには天智天皇が発願して大津宮の乾の地に志賀寺(崇福寺)を造立したことがみえ、いわゆる大津宮所在論争の重要な論点ともなっている。しかし「日本書紀」をはじめ六国史にはこのような所伝は認められず、従来からその記述の信憑性に疑問も出されている。事実、志賀山寺の初見は「万葉集」巻二の「穂積皇子に勅して近江の志賀の山寺に遣はす時、但馬皇女の作りましし御歌一首」で、「後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の阿廻に標結へわが背」とある。これは持統朝のことであり、六国史ではさらにおくれ、「続日本紀」大宝元年(七〇一)八月四日条をはじめとし、同書天平元年(七二九)八月五日条(紫郷山寺)、同一二年一二月一三日条などにみえ、同書天平勝宝元年(七四九)閏五月二〇日条、同七月一三日条では崇福寺の名でみえる。これらから当初所在地の名をとって志賀山寺とよばれていたが、天平末年頃崇福寺という寺号を得て、両者を併用することになったと考えられる。
「日本紀略」延喜二一年(九二一)一一月四日条にも「暁、崇福寺堂塔雑舎等焼失、建立之後二百五十三年」とあるように、天智天皇七年(六六八)説は依然有力で、あるいはこの頃に着工された可能性が大きい。しかし壬申の乱後造営は中止されたとみられ、その事実上の初見が持統朝であることは、乱後の反天智天皇の感情が天武天皇の死後ようやく収まり、天智天皇の娘である持統天皇による父の名誉回復・追福の一部として志賀山寺造営の再開がなされたと考えられる。「続日本紀」大宝元年前掲条に志賀山寺の食封を前年の文武天皇四年(七〇〇)から教えて三〇年で停止するという太政官処分がなされたとあるのは、この年施行された大宝律令の食封五年の規定に対する例外的な優遇措置とみられ、天智天皇への追福意識の高まりを示しており、この前後に急速に寺容が整備されたとみられる。
長良橋北詰の北西方に位置。神護山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊地蔵菩薩。寺伝では、文明元年(一四六九)土岐氏の重臣長井藤左衛門長弘により建立されたとも、明応二年(一四九三)守護代斎藤利国(妙純)の実弟斎藤利安が長良の居館を禅寺にしたともいい、開山は京都妙心寺東海派の祖悟渓宗頓の弟子独秀乾才が招請された。以後独秀派の根本道場として栄え、名僧が輩出した。なかでも有名な僧は、永禄七年(一五六四)一〇月四日以前に甲斐の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
滋賀県大津市滋賀里町甲にあった古代の官寺。志賀山寺ともいい,668年(天智7)天智天皇が霊夢により大津宮の北西山中に創建したと伝える。《扶桑略記》が引く縁起によると,諸堂舎がそなわり,弥勒の丈六像を本尊とした。798年(延暦17)には十大寺の一つに数えられたが,921年(延喜21)火災のため焼失した。再建の後もまた965年(康保2)火災にあい,しだいに衰退し,13世紀以後まったく廃絶した。
執筆者:中井 真孝
二つの小さな谷をはさんで南北3ヵ所に礎石が残っている。1938年,39年発掘調査が行われた。中央の舌状台地に西に小金堂,東に塔があり,谷をへだてた北の山腹を削り出した段に弥勒堂とよばれる講堂が構えられ,両者を橋で連絡していたことがわかり,これが668年につくられた大津宮(近江大津宮)と考えられる。39年の塔の発掘で地下1mに心礎が検出され,心礎の東側面に横穴状の舎利孔が創建当初の状況でみつかった。ここに金のふたをしたフラスコ形の緑色ガラス製の舎利容器が,長方形の内にガラス容器をのせる蓮華座をつけた金製の内函,同形の銀製中函,香様(こうざま)の台をもつ青銅製外函に収められていた。これに金銀平脱鉄鏡,無字銀銭,鈴,玉を伴っていた。中央台地北斜面から7世紀中葉の瓦とともに塼仏,塑像片などが発見されている。この寺の廃絶後桓武天皇がこの地に臨みこの寺を復興させた。
小金堂,塔,弥勒堂のほかに中央台地より谷をへだてた南に金堂と講堂と現在よんでいるより規模の大きな堂宇もつくられ,これらすべてを梵釈寺とよんだとも考えられる。泥塔,緑釉陶,須恵器硯をはじめ平安時代の瓦が全域で検出される。八花鏡,佐波理(響銅(さはり))鋺なども採集されている。
執筆者:坪井 清足
長崎市にある黄檗(おうばく)宗の寺。山名は聖寿山。黄檗宗の寺としては日本最古の寺である。1629年(寛永6)(一説には1632年)明人商人王氏らにより創建され,福州より渡来した超然(ちようねん)を開山とした。このため福州寺とも別称される。1644年(正保1)重建され,51年(慶安4)には道者超元が院事を領し,続く55年(明暦1)には京都の万福寺の開祖として名高い隠元が入寺した。この後,隠元門下の即非如一が中興として堂舎の改築に尽力した。当寺は入港船舶の海上安穏を祈るとともに明人商人等の菩提寺の役割も果たしていた。境内には国宝に指定された第一峰門(だいいつぽうもん)(1644),大雄宝殿(1646)をはじめ,重要文化財の鐘楼堂(1648),護法堂(1731),媽姐門(1827),三門(1849)などが建つ。第一峰門は中国で部材を切り組み,これを舶載して建立したものと伝え,とくに斜め方向に組物を出し,網目状に軒下を覆うなど,中国明末・清初の建築様式を伝えている。大雄宝殿は当時の本堂にあたり,建立当初は単層で,のちに上層を付加した。初重の軒回りの工法,絵様の繰形(くりかた)など,中国建築の影響が顕著である。長崎の福済寺(1945年の戦災で焼失)および京都の万福寺とともに黄檗宗の代表的建築であるが,こうした建築様式は日本の近世建築に影響を及ぼすまでにはいたらなかった。
→黄檗美術
執筆者:上田 純一+谷 直樹
福岡市博多区にある臨済宗大徳寺派の寺。山号は横岳山。1241年(仁治2)随乗房湛慧が大宰府横岳に建立し円爾弁円を開山とした。43年(寛元1)官寺に列せられ,71年(文永8)南浦紹明も入寺し,80年(弘安3)には東福寺下に属した。その後,室町時代には諸山,十刹にも列せられ,また大友宗麟の保護も受けたが,1586年(天正14)兵火に罹(かか)り諸堂がことごとく焼失した。近世に入り,1602年(慶長7)黒田長政は寺基を現在の地に移し菩提所となし,諸堂再建,寺領寄進等を行う一方,京都大徳寺の春屋良把を請じて中興開山とした。以来当寺は九州一派の惣録所として繁栄。境内には黒田孝高・長政等の墓もある。
執筆者:上田 純一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
滋賀県大津市滋賀里(しがさと)町にあった古寺。志賀(しが)寺、志賀山(しがさん)寺、紫郷山(しがさん)寺ともいう。大津宮に遷都した翌年(668)天智(てんじ)天皇の勅願により創建された。729年(天平1)官寺に列し、聖武(しょうむ)天皇、嵯峨(さが)天皇の行幸礼仏などがあって栄え、十大寺の一に数えられた。のち平安時代に数回の火災と地震にあい、1057年(天喜5)弥勒(みろく)三尊仏を供養(くよう)して再興されたが、1163年(長寛1)に延暦(えんりゃく)寺の山徒が園城(おんじょう)寺を焼打ちした際に、当寺も灰燼(かいじん)に帰し、1230年(寛喜2)園城寺に付属して、以後再建されることがなかった。1941年(昭和16)崇福寺跡として国史跡に指定。1939年塔址(とうし)心礎より金属箱と瑠璃壺(るりつぼ)に納めた仏舎利が出土し、国宝に指定された。小金堂址、弥勒堂址がある。
[平井俊榮]
長崎市鍛冶屋(かじや)町にある黄檗(おうばく)宗の寺。聖寿(しょうじゅ)山と号し、俗に福州寺(ふくしゅうでら)あるいは支那寺(でら)とよばれる。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)。1632年(寛永9)長崎にいた中国福建省の商人王氏らが福州人の菩提(ぼだい)寺として創建、明(みん)僧超然(ちょうねん)を招いて開山とした。1654年(承応3)隠元隆琦(いんげんりゅうき)が来朝すると翌年この寺に入り、ついで1657年(明暦3)隠元の弟子の即非如一(そくひにょいち)が来朝して入寺し、堂宇を営造して中興第1世となった。本堂にあたる大雄宝殿と第一峰(だいいっぽう)門は、明末の様式を強く取り入れた代表的な黄檗宗建築で、国宝。三門(楼門)、護法堂、鐘鼓楼(しょうころう)、媽姐(まそ)門は国の重要文化財。
[菅沼 晃]
福岡市博多(はかた)区千代(ちよ)にある臨済(りんざい)宗大徳寺派の寺。横岳山(おうがくさん)と号す。1240年(仁治1)湛慧(たんえ)が大宰府(だざいふ)横岳に一宇を建て、翌年宋(そう)から帰国した円爾弁円(えんにべんえん)を迎えて開山としたのに始まる。1243年(寛元1)博多の承天寺とともに官寺に列し、1272年(文永9)には南浦紹明(なんぽじょうみょう)が来住して大いに禅風を挙揚した。1586年(天正14)焼失、1600年(慶長5)黒田長政(ながまさ)が現地に移し、春屋宗園(しゅんおくそうえん)を中興開山として再興。以後、黒田家の菩提(ぼだい)寺として栄えた。唐(から)門、山門、仏殿、黒田如水(じょすい)・長政画像は県指定文化財。黒田如水・長政ら代々の藩主の墓がある。
[平井俊榮]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
長崎市鍛冶屋町にある黄檗(おうばく)宗の寺。通称は福州寺・赤寺。聖寿山と号す。興福寺・福済寺とともに三福寺の一つ。中国の福州から来日した超然(ちょうねん)が1635年(寛永12)に創建し,日本黄檗宗の開祖隠元隆琦(いんげんりゅうき)が55年(明暦元)入寺した。ついで57年に法弟即非如一(そくひにょいち)が来日して伽藍を整備し,中興開山とされる。伽藍は中国風様式を特色とする黄檗寺院のなかでも代表的な建築で,大雄宝殿・第一峰門は国宝。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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[日本]
古代寺院跡から発見された舎利容器の実例は数例にしかすぎないが,それらの例からすれば外容器として金器,銀器,銅器が順に入れ子にして用いられ,舎利の直接容器としてガラス器を用いるのが正式なものだったようである。崇福寺跡の例では,心礎の側面にうがたれた舎利孔から金製の蓋をもつ緑色のガラス製舎利容器を納めた金箱,銀箱,金銅箱の外容器が,法隆寺では西院五重塔心礎上面にうがたれた舎利孔から銀栓をした緑色のガラス製舎利容器を納めた透し彫の卵形金器,同銀器,金銅壺が出土した。山田寺の場合もこうした埋納法であることが《上宮聖徳法王帝説》裏書に見えているので,断片的に遺存している飛鳥寺,法輪寺,太田廃寺なども同じような形で埋納されたものと考えられる。…
…江戸初期の黄檗宗の渡来は,当時最新の中国文化を日本に紹介するうえで大きな役割を果たしたが,美術の分野でもその足跡は建築,彫刻,絵画,書,工芸の各分野に及んでいる。建築ではまず,長崎の居留民のために崇福寺,福済寺,興福寺などがつくられた。崇福寺の第一峰門(1644),大雄宝殿(1646)がその代表的遺構であり,渡来工人による明代の寺院建築の意匠,彩色が強い異国風を感じさせる。…
※「崇福寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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