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北条重時 ほうじょうしげとき

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

北条重時
ほうじょうしげとき

[生]建久9(1198)
[没]弘長1(1261).11.3. 鎌倉
鎌倉幕府の連署。義時の子。貞応2 (1223) 年駿河守。寛喜2 (30) 年六波羅探題として上洛。嘉禎3 (37) 年相模守。宝治1 (47) 年の宝治合戦ののち連署に迎えられ,執権時頼とともに,北条執権政治の安定に努めた。

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デジタル大辞泉の解説

ほうじょう‐しげとき〔ホウデウ‐〕【北条重時】

[1198~1261]鎌倉前期の武将。義時の三男。六波羅探題連署を歴任して、執権北条時頼を補佐。のち出家。彼の残した「北条重時家訓」は、後世の武家家訓のもととなった。極楽寺殿。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

北条重時 ほうじょう-しげとき

1198-1261 鎌倉時代の武将。
建久9年6月6日生まれ。北条義時(よしとき)の3男。寛喜(かんぎ)2年六波羅(ろくはら)探題北方となる。宝治(ほうじ)元年鎌倉にもどり北条時頼(ときより)のもとで連署をつとめた。康元元年出家して極楽寺を創建し,極楽寺殿とよばれた。最古の武家家訓「北条重時家訓」の作者としても知られる。弘長(こうちょう)元年11月3日死去。64歳。法名は観覚。
【格言など】悲喜はこもごも到来するのである(「北条重時家訓」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

北条重時

没年:弘長1.11.3(1261.11.26)
生年:建久9.6.6(1198.7.11)
鎌倉中期・後期の武将。鎌倉幕府執権義時の3男,兄に泰時,朝時,母は比企朝宗の娘。三郎と称す。修理権亮,駿河守,相模守,陸奥守。法名は観覚。承久1(1219)年に新設された小侍所の別当に補任された。寛喜2(1230)年北条時盛と六波羅探題を勤め,のち単独で在任するなど前後18年間にわたって在京した。この間に制定された「御成敗式目」(1232)について,泰時は西国の御家人統制に当たる重時に仮名消息を送っている。宮騒動(1246)で朝時の一族(名越氏)が失脚し,宝治合戦(1247)で三浦氏を討った執権時頼は,京都から重時を連署として迎えた。以後,幕政の中心にあった時頼,重時は,康元1(1256)年あいついで出家し,重時の長子長時が執権となった。晩年は鎌倉極楽寺の別業(別荘)で過ごし極楽寺殿ともいわれた。信濃,若狭,和泉,讃岐守護を歴任。長時に与えた『六波羅殿御家訓』『極楽寺殿御消息』(あわせて「北条重時家訓」といわれる)は,わが国でもっとも古い武家家訓とされる。藤原定家と親交があり,歌人であった。子孫にも歌人が多い。一族の赤橋,常葉,塩田,普恩寺各氏は,執権・連署・引付頭人となり,六波羅・鎮西両探題や諸国守護を歴任し,北条一門のうちで重きをなした。鎌倉の西大寺流律宗寺院は,極楽寺をはじめ多くはこの一族が改宗,創建した。極楽寺奥の院に伝重時の墓(宝篋印塔)がある。<参考文献>桃裕行『北条重時の家訓』

(湯山学)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

ほうじょうしげとき【北条重時】

1198‐1261(建久9‐弘長1)
鎌倉前期の武将。北条義時の三男。母は比企朝宗の女。駿河守,相模守,陸奥守を歴任し従四位上に至る。1219年(承久1)九条頼経の鎌倉下向後,頼経の警固を担当する初代小侍所別当に就任。30年(寛喜2)より,兄である執権泰時の忠実な六波羅探題北方として18年間この要職にあった。とくに四条天皇没後の皇位争いでは,同腹の妹の夫土御門定通とともに邦仁王(後嵯峨天皇)を推戴するに功績があった。47年(宝治1)鎌倉へ下向し,女婿である執権時頼のもとで連署となり,宝治合戦後の幕政運営を補佐した。

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大辞林 第三版の解説

ほうじょうしげとき【北条重時】

1198~1261) 鎌倉前期の武将。義時の子。極楽寺殿とも。兄泰時を助けて六波羅探題・連署を務めた。「重時家訓」は武家家訓の初源。極楽寺を創設。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

北条重時
ほうじょうしげとき
(1198―1261)

鎌倉前期の武将。義時(よしとき)の子、泰時(やすとき)の弟。極楽寺(ごくらくじ)殿とよばれた。駿河守(するがのかみ)、相模(さがみ)守、陸奥(むつ)守を歴任。法名観覚。1230年(寛喜2)六波羅探題(ろくはらたんだい)(北方)に就任して上洛(じょうらく)。47年(宝治1)三浦氏を滅ぼして(宝治(ほうじ)合戦)、独占的地位を確立した執権北条時頼(ときより)から、時房(ときふさ)死後空席であった連署(れんしょ)に迎えられ、鎌倉に戻った。以後、時頼を助けて執権政治の安定を図った。56年(康元1)連署を辞し出家、5年後の弘長(こうちょう)元年11月3日、自ら創建した極楽寺で没した。彼の作である「北条重時家訓」(「六波羅殿御家訓」および「極楽寺殿御消息」)は、武家家訓の源泉として注目される。[田辺久子]

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世界大百科事典内の北条重時の言及

【北条重時家訓】より

…13世紀中ごろ,北条重時が子孫のために書いた家訓。武家の家訓として最古のもの。…

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