北条重時(読み)ホウジョウシゲトキ

デジタル大辞泉 「北条重時」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐しげとき〔ホウデウ‐〕【北条重時】

[1198~1261]鎌倉前期の武将義時三男六波羅探題連署を歴任して、執権北条時頼補佐。のち出家。彼の残した「北条重時家訓」は、後世武家家訓のもととなった。極楽寺殿。

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精選版 日本国語大辞典 「北条重時」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐しげとき【北条重時】

  1. 鎌倉前期の武将。義時の子。駿河守。相模守。六波羅探題・連署を歴任。「六波羅殿御家訓」「極楽寺殿御消息」の二つの家訓を残した。建久九~弘長元年(一一九八‐一二六一

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朝日日本歴史人物事典 「北条重時」の解説

北条重時

没年:弘長1.11.3(1261.11.26)
生年:建久9.6.6(1198.7.11)
鎌倉中期・後期の武将。鎌倉幕府執権義時の3男,兄に泰時,朝時,母は比企朝宗の娘。三郎と称す。修理権亮,駿河守,相模守,陸奥守。法名は観覚。承久1(1219)年に新設された小侍所の別当に補任された。寛喜2(1230)年北条時盛と六波羅探題を勤め,のち単独で在任するなど前後18年間にわたって在京した。この間に制定された「御成敗式目」(1232)について,泰時は西国の御家人統制に当たる重時に仮名消息を送っている。宮騒動(1246)で朝時の一族(名越氏)が失脚し,宝治合戦(1247)で三浦氏を討った執権時頼は,京都から重時を連署として迎えた。以後,幕政の中心にあった時頼,重時は,康元1(1256)年あいついで出家し,重時の長子長時が執権となった。晩年は鎌倉極楽寺の別業(別荘)で過ごし極楽寺殿ともいわれた。信濃,若狭,和泉,讃岐守護を歴任。長時に与えた『六波羅殿御家訓』『極楽寺殿御消息』(あわせて「北条重時家訓」といわれる)は,わが国でもっとも古い武家家訓とされる。藤原定家と親交があり,歌人であった。子孫にも歌人が多い。一族の赤橋,常葉,塩田,普恩寺各氏は,執権・連署・引付頭人となり,六波羅・鎮西両探題や諸国守護を歴任し,北条一門のうちで重きをなした。鎌倉の西大寺流律宗寺院は,極楽寺をはじめ多くはこの一族が改宗,創建した。極楽寺奥の院に伝重時の墓(宝篋印塔)がある。<参考文献>桃裕行『北条重時の家訓』

(湯山学)

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改訂新版 世界大百科事典 「北条重時」の意味・わかりやすい解説

北条重時 (ほうじょうしげとき)
生没年:1198-1261(建久9-弘長1)

鎌倉前期の武将。北条義時の三男。母は比企朝宗の女。駿河守,相模守,陸奥守を歴任し従四位上に至る。1219年(承久1)九条頼経の鎌倉下向後,頼経の警固を担当する初代小侍所別当に就任。30年(寛喜2)より,兄である執権泰時の忠実な六波羅探題北方として18年間この要職にあった。とくに四条天皇没後の皇位争いのときは,同腹の妹の夫土御門定通とともに邦仁王(後嵯峨天皇)を推戴するに功績があった。

 47年(宝治1)鎌倉へ下向,女婿である執権時頼のもとで連署となり,宝治合戦後の幕政運営を補佐した。法然門下の修観に帰依して,56年(康元1)出家,法名観覚。61年(弘長1)みずから創建した極楽寺の邸へ移り,極楽寺殿と呼ばれた。同11月同所にて死去。子のために《北条重時家訓》を残し,武士の処世訓や統治者の心構えを説いた。また,藤原定家と交わり《新勅撰和歌集》などに和歌50余首を残している。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北条重時」の意味・わかりやすい解説

北条重時
ほうじょうしげとき
(1198―1261)

鎌倉前期の武将。義時(よしとき)の子、泰時(やすとき)の弟。極楽寺(ごくらくじ)殿とよばれた。駿河守(するがのかみ)、相模(さがみ)守、陸奥(むつ)守を歴任。法名観覚。1230年(寛喜2)六波羅探題(ろくはらたんだい)(北方)に就任して上洛(じょうらく)。47年(宝治1)三浦氏を滅ぼして(宝治(ほうじ)合戦)、独占的地位を確立した執権北条時頼(ときより)から、時房(ときふさ)死後空席であった連署(れんしょ)に迎えられ、鎌倉に戻った。以後、時頼を助けて執権政治の安定を図った。56年(康元1)連署を辞し出家、5年後の弘長(こうちょう)元年11月3日、自ら創建した極楽寺で没した。彼の作である「北条重時家訓」(「六波羅殿御家訓」および「極楽寺殿御消息」)は、武家家訓の源泉として注目される。

[田辺久子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北条重時」の意味・わかりやすい解説

北条重時
ほうじょうしげとき

[生]建久9(1198)
[没]弘長1(1261).11.3. 鎌倉
鎌倉幕府の連署。義時の子。貞応2 (1223) 年駿河守。寛喜2 (30) 年六波羅探題として上洛。嘉禎3 (37) 年相模守。宝治1 (47) 年の宝治合戦ののち連署に迎えられ,執権時頼とともに,北条執権政治の安定に努めた。建長1 (49) 年陸奥守。康元1 (56) 年出家し,観覚と号した。なお重時の家訓『六波羅殿御家訓』『極楽寺殿御消息』は後世の武家家訓の基となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北条重時」の解説

北条重時 ほうじょう-しげとき

1198-1261 鎌倉時代の武将。
建久9年6月6日生まれ。北条義時(よしとき)の3男。寛喜(かんぎ)2年六波羅(ろくはら)探題北方となる。宝治(ほうじ)元年鎌倉にもどり北条時頼(ときより)のもとで連署をつとめた。康元元年出家して極楽寺を創建し,極楽寺殿とよばれた。最古の武家家訓「北条重時家訓」の作者としても知られる。弘長(こうちょう)元年11月3日死去。64歳。法名は観覚。
【格言など】悲喜はこもごも到来するのである(「北条重時家訓」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北条重時」の解説

北条重時
ほうじょうしげとき

1198.6.6~1261.11.3

鎌倉中期の武将。父は北条義時,母は比企朝宗の女。泰時の弟。極楽寺殿と称する。小侍所別当として将軍に近侍し,1230年(寛喜2)六波羅探題北方として上京。18年間,幕府の京都統治の安定に努める。宝治合戦ののち,北条時頼に招かれ関東にもどり,47年(宝治元)連署に就任。56年(康元元)出家し,のち鎌倉極楽寺に住んだ。「北条重時家訓」は鎌倉時代の武家の主従慣行や日常道徳を伝える。

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旺文社日本史事典 三訂版 「北条重時」の解説

北条重時
ほうじょうしげとき

1198〜1261
鎌倉中期の武将
義時の3男。極楽寺を始めたので「極楽寺殿」ともいう。兄泰時を補佐して幕府の要職を歴任。1230年六波羅探題として上洛し,'47年宝治合戦ののち,執権時頼に招かれて鎌倉に帰り連署となる。その家訓『極楽寺殿御消息』は有名である。

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367日誕生日大事典 「北条重時」の解説

北条重時 (ほうじょうしげとき)

生年月日:1198年6月6日
鎌倉時代前期の武将
1261年没

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世界大百科事典(旧版)内の北条重時の言及

【北条重時家訓】より

…13世紀中ごろ,北条重時が子孫のために書いた家訓。武家の家訓として最古のもの。…

※「北条重時」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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