(湯山学)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
鎌倉前期の武将。北条義時の三男。母は比企朝宗の女。駿河守,相模守,陸奥守を歴任し従四位上に至る。1219年(承久1)九条頼経の鎌倉下向後,頼経の警固を担当する初代小侍所別当に就任。30年(寛喜2)より,兄である執権泰時の忠実な六波羅探題北方として18年間この要職にあった。とくに四条天皇没後の皇位争いのときは,同腹の妹の夫土御門定通とともに邦仁王(後嵯峨天皇)を推戴するに功績があった。
47年(宝治1)鎌倉へ下向,女婿である執権時頼のもとで連署となり,宝治合戦後の幕政運営を補佐した。法然門下の修観に帰依して,56年(康元1)出家,法名観覚。61年(弘長1)みずから創建した極楽寺の邸へ移り,極楽寺殿と呼ばれた。同11月同所にて死去。子のために《北条重時家訓》を残し,武士の処世訓や統治者の心構えを説いた。また,藤原定家と交わり《新勅撰和歌集》などに和歌50余首を残している。
執筆者:青山 幹哉
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鎌倉前期の武将。義時(よしとき)の子、泰時(やすとき)の弟。極楽寺(ごくらくじ)殿とよばれた。駿河守(するがのかみ)、相模(さがみ)守、陸奥(むつ)守を歴任。法名観覚。1230年(寛喜2)六波羅探題(ろくはらたんだい)(北方)に就任して上洛(じょうらく)。47年(宝治1)三浦氏を滅ぼして(宝治(ほうじ)合戦)、独占的地位を確立した執権北条時頼(ときより)から、時房(ときふさ)死後空席であった連署(れんしょ)に迎えられ、鎌倉に戻った。以後、時頼を助けて執権政治の安定を図った。56年(康元1)連署を辞し出家、5年後の弘長(こうちょう)元年11月3日、自ら創建した極楽寺で没した。彼の作である「北条重時家訓」(「六波羅殿御家訓」および「極楽寺殿御消息」)は、武家家訓の源泉として注目される。
[田辺久子]
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1198.6.6~1261.11.3
鎌倉中期の武将。父は北条義時,母は比企朝宗の女。泰時の弟。極楽寺殿と称する。小侍所別当として将軍に近侍し,1230年(寛喜2)六波羅探題北方として上京。18年間,幕府の京都統治の安定に努める。宝治合戦ののち,北条時頼に招かれ関東にもどり,47年(宝治元)連署に就任。56年(康元元)出家し,のち鎌倉極楽寺に住んだ。「北条重時家訓」は鎌倉時代の武家の主従慣行や日常道徳を伝える。
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…13世紀中ごろ,北条重時が子孫のために書いた家訓。武家の家訓として最古のもの。…
※「北条重時」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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