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北条政村 ほうじょうまさむら

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

北条政村
ほうじょうまさむら

[生]元久2(1205)
[没]文永10(1273).5.27.
鎌倉幕府の7代執権 (在職 1264~68) 。義時の子。泰時の異母弟。時政の死後,幕政を握ろうとはかったが元仁1 (24) 年失敗。泰時により助命された。延応1 (39) 年評定衆,康元1 (56) 年連署,翌年相模守。

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デジタル大辞泉の解説

ほうじょう‐まさむら〔ホウデウ‐〕【北条政村】

[1205~1273]鎌倉幕府7代執権。義時の子。評定衆連署などを経て文永元年(1264)執権となる。時宗に執権職を譲った後は再び連署となり、時宗を補佐した。和歌にも優れ「新勅撰和歌集」などに37首を残す。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

北条政村 ほうじょう-まさむら

1205-1273 鎌倉時代の武将。
元久2年6月22日生まれ。北条義時の子。北条泰時(やすとき)の異母弟。評定衆,引付頭人(ひきつけとうにん)をへて建長8年連署となる。文永元年北条長時の死後,暫定的に7代執権となるが,5年北条時宗(ときむね)にゆずり連署にもどる。和歌にもすぐれ,「新勅撰和歌集」などに37首がのっている。文永10年出家し,5月27日死去。69歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

北条政村

没年:文永10.5.27(1273.6.13)
生年:元久2.6.22(1205.7.10)
鎌倉中期の幕府執権。北条義時と伊賀朝光の娘の子。泰時の異母弟。畠山重忠が討たれた日に生まれた。右馬権頭,陸奥守,相模守,左京権大夫などを歴任。建保1(1213)年三浦義村烏帽子親として元服。元仁1(1224)年義時の急死後,母伊賀氏は兄の政所執事伊賀光宗と共謀し,九条頼経を廃して娘婿の参議一条実雅を将軍に立て,政村を執権にしようとし画策したが失敗し,政村は兄泰時の配慮によって事なきを得た。延応1(1239)年評定衆に加えられ,建長1(1249)年には新設された引付衆の一番頭人となる。康元1(1256)年連署に就任し,執権北条時頼・長時を補佐した。文永1(1264)年には長時が病気により執権を辞したが,家督時宗が若年であったため,暫定的に政村が7代執権となり,時宗は連署に就任した。政村執権時代,将軍宗尊親王の廃位と惟康親王の将軍新立という重大事件があったが,時宗と共に政村も中心的役割を果たしていたと推測される。文永5年成長した時宗に執権を譲って再び連署となる。蒙古襲来直前の多難な時期であったが,政村はよく時宗を助けた。文永10年病気によって出家し覚崇と称し,間もなく没した。京都の公家も政村を「東方遺老」と評し,その死を惜しんだ。和歌にもすぐれ,勅撰集に40首入集している。<参考文献>安田元久編『鎌倉将軍執権列伝』

(森幸夫)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

ほうじょうまさむら【北条政村】

1205‐73(元久2‐文永10)
鎌倉幕府の執権。義時の子。母は伊賀朝光の女。1224年(元仁1)伊賀光宗らは政村を執権に立て権力を握ろうと謀って失敗したが,累は政村に及ばなかった。成長して評定衆,引付頭人,連署という幕府の要職を歴任。64年(文永1)長時の死後,執権の座につく。66年将軍宗尊(むねたか)親王を廃す微妙な政局を乗りきって,68年嫡流時宗に執権職を返し,再び連署。73年出家,法名覚崇。【青山 幹哉】

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大辞林 第三版の解説

ほうじょうまさむら【北条政村】

1205~1273) 鎌倉幕府七代執権。義時の子。1256年連署、64年執権、68年時宗に執権を譲って再び連署となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

北条政村
ほうじょうまさむら
(1205―1273)

鎌倉幕府第7代執権。父は義時(よしとき)。母は伊賀朝光(いがともみつ)の女(むすめ)。1224年(元仁1)義時の重病を機に、母と母の兄光宗とが、将軍九条頼経(よりつね)を廃して源頼朝(よりとも)の甥(おい)の参議藤原実雅(さねまさ)を将軍にたて、政村を執権とする陰謀を企てた。しかしこれは事前に発覚し、政村もこれに連座するところであったが、異母兄泰時(やすとき)の配慮によって厚免(こうめん)された。1230年(寛喜2)正月常陸大掾(ひたちのだいじょう)、以後、式部少丞(しきぶしょうじょう)、右馬助(うまのすけ)、右馬権頭(ごんのかみ)に任ぜられる。39年(延応1)評定衆(ひょうじょうしゅう)に列し、49年(建長1)12月引付頭人(ひきつけとうにん)、56年(康元1)3月連署(れんしょ)となる。同年4月陸奥守(むつのかみ)に補任(ぶにん)、翌年5月越後(えちご)の国務を賜い、同年6月相模(さがみ)守に任ぜられる。64年(文永1)8月執権となるが、68年3月に、成長した時宗(ときむね)に執権を譲りふたたび連署となる。73年5月18日出家、覚崇(かくすう)と号したが、同月27日69歳で没した。政村は和歌にも優れ、1251年(建長3)2月常盤(ときわ)の別業(べつぎょう)で和歌会を催し、勅撰(ちょくせん)集には37首が収められている。[菊池紳一]

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