十文字村(読み)じゆうもんじむら

日本歴史地名大系 「十文字村」の解説

十文字村
じゆうもんじむら

[現在地名]白河市いえまえ中島なかじま・十文字・向山むかいやまうえはら丸小山まるこやま北裏きたうら南家みなみいえまえ道東みちひがし瀬戸原せとはら

やしろ川の支流でなん湖から出る藤野ふじの川上流部に位置する。白河城下の東側から下野国に至る通称黒羽くろばね街道に沿い、西は御巡見ごじゆんけん道と称される間道を通って皮籠かわご村に通じる。寛文一二年(一六七二)写の六郡絵図(須賀川市立博物館蔵)には「郷渡之内十文字村」と記され、江戸時代初期は郷渡ごうと村の一部であった。「白河風土記」に「昔ハ卯辰の方八丁計、高田領郷渡村の地に在しか村居を今の地に移すと云伝ふ、年代詳ならす」と記される。


十文字村
じゆうもんじむら

[現在地名]藤島町長沼ながぬま

長沼村の東に位置。東を京田きようでん川が南東から北西に流れる。年代不明であるが、出羽国平鹿ひらか郡十文字(現秋田県平鹿郡十文字町)の百姓四郎左衛門・忠左衛門・源助が、伊吹の大樹の下に住居を構え、新田を開発し村立てしたとの伝承がある。編年私記(鶴岡市郷土資料館蔵)では、寛永四年(一六二七)大沼兵部なる者によって開発され正保三年(一六四六)に立村したという。正保郷帳十文字新田村とみえ、高三四九石余、うち田方三二四石余・畑二五石余。ただしこの高は長沼村のうち十文字組分が含まれている。承応三年(一六五四)検地帳(十文字区有文書)によると高七八石余、うち田方六〇石余・畑方一八石余。


十文字村
じゆうもんじむら

[現在地名]榛名町十文字

群馬郡に属し、西は宮沢みやざわ村、東は富岡とみおか村・善地ぜんじ(現箕郷町)白岩しらいわ村、南は三子沢みつござわ村。高原状台地集落である。承応三年(一六五四)の安中領十文字村検地帳(「稿本久留馬村郷土誌」所収)によると田方二町四反余・畑方二七町七反余・屋敷地五反余。寛文郷帳では田方二四石余・畑方一四七石余、三河中島藩領。江戸後期の御改革組合村高帳では旗本保科領で家数三七。


十文字村
じゆうもんじむら

[現在地名]亘理町逢隈十文字おうくまじゆうもんじ

南はわらび村・榎袋えのきぶくろ村、北は牛袋うしぶくろ村、東は高須賀たかすか村、西は田沢たざわ村。正保郷帳では田六五貫四三八文・畑一一貫五八八文で旱損の村と注記される。「安永風土記」では田六六貫九〇七文・畑一一貫八二二文(うち茶畑五四文)、うち新田は一貫七〇三文。蔵入地は一一八文で、他は亘理伊達氏の知行地。人頭二二人のうち寛永一九年(一六四二)の竿答百姓一八人。その後名請人は五人増加したが、風土記記載時までに内手屋敷うちてやしきに一軒の沽却禿を出している。百姓家数三一(うち名子五・水呑四)、男九六・女七二、馬二三。ほかに亘理伊達氏の足軽の居住地十文字町があり、町の長さは一町三〇間あった。


十文字村
じゆうもんじむら

[現在地名]山形市十文字・立谷川たちやがわ伊達城だてじよう新開しんかい

風間かざま村の北に位置し、立谷川と高瀬たかせ川の形成した扇状地に立地。南北に抜ける羽州街道と二口ふたくち街道が当地で十字に交差しており、村名はこれに由来するという。最上氏改易後は山形藩領、寛文八年(一六六八)幕府領、文政六年(一八二三)陸奥白河藩領、弘化二年(一八四五)上野館林藩領となる。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高八五七石余。正保郷帳では田五七一石余・畑二八六石余。「最上記」によれば寛文・延宝検地高八一〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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