長沼村
ながぬまむら
[現在地名]夕張郡長沼町字フシコ・字
伏古・字
木詰・字
加賀団体・字
馬追・字
馬追原野・字
幌内・字
幌向原野・字
配田内・
錦町北一―二丁目・
錦町南一―二丁目・
本町北一―三丁目・
本町南一丁目・
栄町一―二丁目・
中央北一丁目・
中央南一―二丁目・
銀座北一丁目・
銀座南一―三丁目・
東町北一丁目・
東町南一―三丁目・
宮下一―三丁目・
旭町北一丁目・
旭町南一―三丁目・
曙町一―二丁目・あかね一―三丁目・しらかば一―二丁目・
西町一丁目・
北町一―四丁目・
南町一―二丁目・
市街地・
幌向原野・
西一線北・
西二線北・
西三線北・
西四線北・
西五線北・
西六線北・
西七線北・
西八線北・
西九線北・
西一〇線北・
西一一線北・
西一二線北・
西一三線北・
西一線南・
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西四線南・
西五線南・
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西七線南・
西八線南・
西九線南・
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西一三線南・
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東二線北・
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東九線南・
東一〇線南・
東一一線南・
東一二線南・
東一三線南 明治二五年(一八九二)二月から昭和二七年(一九五二)まで存続した夕張郡の村。「状況報文」によれば地勢はおおよそ平坦で、南北直径五里余、東西は広いところが三里余。南部は泥炭性湿地が多く、中部以北は肥沃な土地柄であった。
長沼村
ながぬまむら
[現在地名]長沼町長沼
現長沼町の中央、東流する江花川北岸の低段丘に立地。簀ノ子川が北境を東流する。古くは永沼と記した。白河と会津を結ぶ白河街道の宿駅。会津へは同街道西の勢至堂宿経由のほか、北の滝村経由の脇道も通じ、交通の要地であった。戦国期に長沼城が築かれ、当地一帯の領有をめぐり二階堂・田村・蘆名・伊達の諸氏が争った。天文元年(一五三二)一一月、二階堂氏を攻めて蘆名盛舜が「永沼」に出馬している(異本塔寺長帳)。永禄九年(一五六六)蘆名盛氏が当地に進出、以降同氏の仙道(中通り)攻略の基地となり、長沼城には新国貞通を配置した(同書)。元亀三年(一五七二)七月七日に盛氏が永沼へ出馬したとの報により、佐竹義重は防戦のため寺山(現棚倉町)へ打出している(同月一〇日「佐竹義重書状」秋田藩家蔵文書)。蘆名氏滅亡後、長沼城は伊達政宗に属した新国氏、天正一八年(一五九〇)に蒲生氏郷領となり蒲生郷安、次いで郷貞が入った。同年の検地目録(天栄村史)に「永沼町方」とみえ、一二二貫五〇文・六七一石余。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録には「長沼町」とみえ高一千四〇九石余。蒲生氏時代に会津への街道(白河街道)の整備が進み、当地を宿駅とし町場が形成されたとみられる(天正一九年「町野長門伝符状」楽美術館蔵)。
長沼村
ながぬまむら
[現在地名]藤島町長沼
藤島川右岸に位置し、西対岸は上土口村・下土口村(現三川町)、東は十文字村、南東は落野目村。長沼由来記(岩浪文書)によると、寛永六年(一六二九)旧最上氏家臣大沼兵部によって開発され、兵部は村立てとともに大肝煎役を命ぜられている。編年私記(鶴岡市郷土資料館蔵)では、同四年より同人によって開発され、正保三年(一六四六)に立村したとする。村名については「村中に沼形之れ有るをかた取り、長沼村と号し候也」とある(長沼由来記)。また寛永四年庄内藩家中石原弥五右衛門に新田地方で一〇〇石が加増され、「見分次第何方ニ而成とも新田切開き可申」ということで、猪子村(現三川町)に八〇石、長沼・下土口両村に二〇石を開発している(大泉紀年)。
長沼村
ながぬまむら
[現在地名]稲城市東長沼・百村・向陽台二―三丁目
矢野口村の西にあり、北東は向島新田、北は多摩川を隔てて押立村・常久村(現府中市)。青沼明神社(現青渭神社)付近に長い形の沼があったことが村名の由来ともいわれている(風土記稿)。地形はおおよそ平らで、北を大丸用水が流れ、南は多摩丘陵に入り込んでいる。北を東西に八王子道、南を東西に江戸道が通る。田園簿では長沼村とあり、田三五二石余・畑九八石余、旗本朝倉領。
長沼村
ながぬまむら
[現在地名]長野市長沼 穂保・大町
千曲川左岸にある。南北に北国脇往還が通る。東は千曲川により高井郡相之島と境し、西は富竹村・下駒沢村、南は村山村、北は津野村と境する。
中世は太田庄に属し、島津氏が領した。明徳三年(一三九二)の「高梨薩摩守朝高并一族以下被付給人所々注文」(高梨文書)に「水内郡上長沼知行分之事」とあり、また、「同郡上長沼并蔵井郷高梨備前入道知行分之事彼所者、或為勲功賞、或為譜、代本領、知行無相違」とあるように、高井郡の高梨氏が長沼のうちを領知したこともあったが、諏訪社上社の享徳三年の御射山頭役に「長沼島津入道沙弥常忠」とあるなど、代々島津氏が領有した(「諏訪御符礼之古書」諏訪大社上社文書)。
長沼村
ながぬまむら
[現在地名]厚木市長沼
大住郡に属した。西を玉川が流れ、東は大神村(現平塚市)、南は吉際村(現同市)、北は上落合村に接する。大山道が村の北境を東西に通じている。永和四年(一三七八)一二月二一日の日奉広重寄進状(県史三)および明徳五年(一三九四)三月二三日の玄珍寄進状(同書)に「相模国中沼郷并今里村」、応永二七年(一四二〇)一二月二一日の関東公方足利持氏御教書(同書)に「四宮庄内長沼・今里」とあり、中沼は長沼で大住郡四宮庄に含まれる地域であった。
長沼村
ながぬまむら
[現在地名]成田市長沼
北から東にかけて長沼が広がり、沼を挟み東は荒海村、西は南羽鳥村。文禄三年(一五九四)の検地帳(長沼区有文書)には香取郡埴生之庄長沼村とある。初め佐倉藩領で、寛文三年(一六六三)幕府領、元禄一一年(一六九八)には旗本杉田領と同中川領の相給、同一四年に再び佐倉藩領となり、享保八年(一七二三)以降は山城淀藩領。寛文三年に幕府領となったのは磯部村と同様に下利根川の治水対策と年貢増徴のための新田開発を目的とした幕府の政策による。寛永一一年(一六三四)の年貢割付状(長沼区有文書)では高三〇五石余、寛文三年には高三一〇石余、同一二年には新田開発された一五四石余が新々田として高入れされ高四六四石余となり、正徳三年(一七一三)には長沼分の沼高八八石余を加え高五五四石余となった。
長沼村
ながぬまむら
[現在地名]和賀町長沼
竪川目村の東に位置し、東流する和賀川下流北岸の平地と段丘に立地。江釣子古墳群の支群長沼古墳群がある。「余目氏旧記」に「国分ハ小山より長沼相分なかぬまの親類ニて出家にて下荒井殿先祖也」とみえる。慶長五―六年(一六〇〇―〇一)和賀稗貫一揆の拠点岩崎城攻撃のため、南部利直は当村に一宿後岩崎城に押寄せている(内史略)。
長沼村
ながぬまむら
[現在地名]戸塚区長沼町
東と南は飯島村、西は柏尾川を隔てて戸塚宿、北は下倉田村に接する。東に神明山があり飯島村に連なり、北は下倉田村に延びる。南東に山崎台が孤立する。鎌倉道が下倉田村から入り飯島村に通じる。堰堀は柏尾川から分水する。南東からは谷戸堀が流れる。西に西堀が流れて柏尾川に落ちる。小田原衆所領役帳に安田大蔵丞「六拾貫文 東郡長沼郷」とある。
長沼村
ながぬまむら
[現在地名]伊勢崎市長沼町
下道寺村の南にあり、北方を韮川が東流する。西は八斗島村、南に武蔵国児玉郡上仁手村(現埼玉県本庄市)があり、南東部は烏川に面する。寛文二年(一六六二)以降は利根川(のちの七分川)が地内を貫流していた。中世には首切沼という河跡沼があったが、のち長沼と改めたという。明暦年間(一六五五―五八)川南の地五六町余を開発、向長沼と称したという(伊勢崎風土記)。
長沼村
ながぬまむら
[現在地名]岡山市長沼、邑久郡邑久町東谷
門前村の南、千町平野南東部の丘陵地帯北麓に位置し、北は北地村(現邑久町)、東は大ヶ島村(現同上)。集落は丘陵麓沿いにあり、備前大用水が西流し、同用水の北方に開ける平坦地を千町川が西へ流れる。古代邑久郡長沼郷(和名抄)、中世長沼庄の遺称地。正保郷帳では高一千一九〇石余、枝村に円定寺村・東谷村(現邑久町)が載る。「備陽記」によると田畑八四町一反余、家数一四五・人数七八〇、池四。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高一千八二七石余、蔵入と家臣六人の給地。田高一千二〇四石余・七四町五反余、畑高一〇一石余・九町五反余、家数一六一・人数六八六、牛八〇、社方二軒、宮四、樋一〇、橋一四(千町川に五、用水川に九)、池四、沼船一八。
長沼村
ながぬまむら
[現在地名]三郷市鷹野・新和
鎌倉村の北、戸ヶ崎村の北東に位置する。田園簿では戸ヶ崎村の内に含まれていたとみられ、延宝元年(一六七三)に分村したという(風土記稿)。元禄郷帳に村名がみえ、高二二九石余とあるが、鎌倉村を含むと注記される。その後同村が分村したとみられ、天保郷帳では高一三七石余。元禄八年(一六九五)武蔵国幕府領総検地の一環として検地が実施され、延享三年(一七四六)には新田検地が行われ三反二畝九歩が打出されたという(「風土記稿」など)。江戸時代を通じて幕府領であったと思われる(「風土記稿」・改革組合取調書など)。化政期の家数二三(風土記稿)。
長沼村
ながぬまむら
[現在地名]八王子市長沼町・絹ヶ丘一丁目
浅川に支流湯殿川が合流する辺りの南岸に立地する。西は北野村。田園簿に村名がみえ、田九四石余・畑二三石余で幕府領。元禄郷帳では高一四五石余。享保六年(一七二一)の山之根村高改帳では旗本前田領として高一四五石余。以後同領として推移したと考えられる。「風土記稿」では家数五三、小名は大谷部・殿谷戸・中谷戸・とちごと(栃本とも)・両田など。浅川を隔てた高倉野(現高倉町)に当村の持添新田があり、林野と陸田が半々。
長沼村
ながぬまむら
[現在地名]浪岡町長沼
山続きに東は津軽坂村(現青森市)、南は五本松村で、西は徳才子村、北は大釈迦村に接する。おいの助から続く溜池の間にある。
天和四年(一六八四)の書上帳の絵図に大釈迦村の支村とあり家数八。貞享元年(一六八四)の郷村帳に新田として一七二・四石とあり、同四年の検地帳に村高二四八・七〇九石、うち田方二二町四畝一一歩、一八一・五七一石、畑方二一町三反一歩、六七・一三八石とある。
長沼村
ながぬまむら
[現在地名]鶴岡市大淀川 長沼
橋村の南にあり、東を湯尻川が流れる。対岸は大淀川村。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ、高一七二石余。寛永元年庄内高辻帳では田川郡に属し、高一〇九石余。正保郷帳では田二七六石余・畑二一石余、社領六石余で、この高には
橋村・境興野村分が含まれる。
長沼村
ながぬまむら
[現在地名]朝日町長沼
最上川左岸にあり、南東は夏草村、西は石須部村に接し、山間に長沼がある。正保郷帳では田方八〇石余・畑方二四石余。慶安二年(一六四九)以降松山藩領。西五百川郷八沼組に属し、天明七年(一七八七)の松山藩左沢領村々大概書(松山町教育委員会蔵)では高一一七石余、田三町七反余・畑二町八反余、用水は溜井の水を引くが、旱損所であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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