南田原村
みなみたはらむら
紫合村の西にあり、北東部を猪名川が流れる。集落下に広がる段丘面下に宮ノ前・泓ノ坪などの条里地割が残る。中世は多田庄のうちで、正和五年(一三一六)一〇月一三日の多田院堂供養指図(多田神社文書)では多くの警固の御家人のなかに「南田原」とみえる。多田院(現川西市)の応安元年(一三六八)四月八日の金堂供養棟別銭注文には「田原南北」とある。永和元年(一三七五)には「南田原村」の四五家が多田院の法花堂・常行堂・地蔵堂造営のための棟別銭を納めている(七月二五日諸堂造営棟別銭郷村注文)。文明一八年(一四八六)の多田庄段銭結解状では本田方分として三町五段大に対して分銭三一五文を多田院に納め、新田方分として一町一段小一〇歩内(現地二段大)とするが、納入額の記載はなく、諸本所分として四町六段内(一町五段平瀬方跡か・二段半川成)と記され、現地三町五段半に対して一貫六二七文を納めている。
南田原村
みなみたわらむら
[現在地名]生駒市南田原町全域、および新生駒台の一部
小明村北部に隣接し、磐船街道に沿った村。寛文四年(一六六四)から延宝七年(一六七九)までの間に北田原村から分離独立したと考えられる。分離以前、近世初期は幕府領(代官小堀政一)、元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領となり、延宝七年以降旗本松平信重領に編入された。
貝原益軒の「扶桑紀勝」には次のようにある。
<資料は省略されています>
安永三年(一七七四)の十一ケ村村鑑(矢野家文書)には本高五五五・九七五石、増高一三八・二七五石、高合六九四・二五石。反別二五町六反九畝二六歩、小物成渋柿八斗、家数三九、寺院に常福寺(無住、境内に薬師堂あり)・真福寺(無住、境内に観音寺あり)・法楽寺(無住、境内に地蔵堂あり)・宮坊東光寺・阿弥陀寺跡のほか長楽寺や住吉大明神・経堂、村中立会池一四ヵ所、自分池二〇ヵ所、西田原村(河内国)立会の寺谷池があり、村民で割山とした野山二ヵ所、枝郷岡村と北田原村立会の野山一ヵ所があった。
南田原村
みなみたわらむら
[現在地名]奈良市南田原町
中ノ庄村南方にある。「続日本紀」神護景雲元年(七六七)一二月九日条に「従五位上阿倍朝臣三県為
田原鋳銭長官
」とある。「春日社記録」中臣祐定記の嘉禎二年(一二三六)一〇月九日条に「東路 簀河路 誓多林路 田原路 福住路」とある。同記録中臣祐賢記文永四年(一二六七)六月二一日条に「田原茗荷宇」とあり、同書同一〇年八月四日条に「南田原」と記す。この地域は中世には田原庄・田原郷と記された(春日社記録)。
南田原村
みなみたばるむら
[現在地名]南関町四ッ原
小岱山の東南麓に位置し、東は坂下村、北は柿原村、西は上田原村、南は石尾村(現玉名市)と接する。寛文九年(一六六九)の「一統志」に「南田原 天神森」とある。近世は南関手永に属する。宝暦一二年(一七六二)の下ケ名寄帳によると畝数八町三反七畝余、ほかに一町一反三畝余があり、高一二二石六斗余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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