上田原村(読み)うえだはらむら

日本歴史地名大系 「上田原村」の解説

上田原村
うえだはらむら

[現在地名]上田市大字上田原

千曲川の支流さん川の中流東側の地域から、小牧こまき山塊北西部倉升くらます山一帯にわたる村。集落は千曲川寄り松本道沿いに上田原、倉升山北麓に倉升がある。上田原と倉升の中間には東西に通ずる明治二三年(一八九〇)開通の県道第二線路(現国道一四三号)沿いに新道しんどう(現川辺町)がある。東は中之条なかのじよう村、西は築地ついじ村・神畑かばたけ村、南は同じく神畑村、北は下之条しものじよう村と境をなす。

嘉暦四年(一三二九)三月の鎌倉幕府下知状案(守矢文書)に「四番五月会分、左頭、小泉庄半分内上田原・津井地、穂屋薩摩守知行分」として、中世には小泉庄上田原とよばれていた。

上田原村
かみたわらむら

[現在地名]河内町上田原

下田原村の北に位置する。中央を山田やまだ川が南流し、東部を田原道が走る。古くは下田原村を含む一帯を田原と称していた。天文一五年(一五四六)一〇月一七日の秀継授秀寿許可印信案(西方寺文書)に「下野国宇都宮上田原西方寺」とある。近世初期には本田原ほんだわら村の一部、慶安年間(一六四八―五二)から上田原村となる。近世はおおむね宇都宮藩領。

上田原村
かみたんばらむら

[現在地名]下部町上田原

一色いつしき村の北、西八代台地南部の山間地に立地。田原川の小渓谷に集落が開ける。慶長古高帳に上田原とみえ高六九石余、幕府領。宝暦六年(一七五六)版三郡村高帳では高九五石余。文化(一八〇四―一八)初年の家数六一・人数二七八、馬一〇。地内に温泉二ヵ所があり、また塩井の湧く田もあった(甲斐国志)大石おおいし峠を越えて三沢みさわ村で東河内ひがしかわうち路に連絡し、また下田原村へ出て富士川を渡船で越え、切石きりいし(現中富町)駿州往還に通じる道がある。

上田原村
かみたばるむら

[現在地名]南関町はら

小岱しようだい山の東南麓に位置し、東は南田原村、北は田原村、西は宮尾みやのお村、南は石尾いしのお(現玉名市)と接する。近世は南関手永に属する。「国誌」に高九二石余とある。宝暦一二年(一七六二)の下ケ名寄帳によると惣畝数九三町五反七畝余、高九三石五斗余。文政五年(一八二二)の南関手永略手鑑では田三町九反余・畑三町六反一畝余、人数五六。

上田原村
かみたはらむら

[現在地名]古座町上田原

色川いろかわ小匠こだくみ(現那智勝浦町)境より南流する田原川の上流谷間の村。奥熊野の地で、西南は下田原村、東は下里しもさと(現那智勝浦町)に連なり、南西佐部さべ村に接する。慶長検地高目録によると村高二三八石余、小物成二・二六九石。和歌山藩新宮領で大田組に属する。新宮藩御勘定方旧記(「和歌山県史」所収)によれば正保元年(一六四四)には村高二四四石余で与力の芦谷三郎右衛門(六一石余)・深津五郎左衛門(三一石余)・平岩清左衛門(三一石余)・浅井忠右衛門(六一石余)・西方太郎左衛門(六〇石)の知行であった。

上田原村
かみたわらむら

[現在地名]中津村上田原

日高川の両岸にまたがり、南西は下田原村、北は三十木みそぎ村。慶長検地高目録では村高一一一石余、小物成三斗九升九合。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」によれば田畑一二町余で高一一二石余、家数二七で内訳は本役五、半役一〇、無役九、庄屋・年寄各一など、人数一〇八、牛五、鉄砲三、池一、御蔵一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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