原庄(読み)くずはらのしよう

日本歴史地名大系 「原庄」の解説

原庄
くずはらのしよう

近世の葛原村域一帯にあったとみられる庄園。永暦元年(一一六〇)一〇月後白河上皇は紀伊熊野権現と近江日吉社から祭神を勧請し、京都東山に新熊野いまくまの神社・新日吉いまひえ神社を創立した。上皇は岸和田きしわだ(現門真市)とともに当庄を新日吉社に寄進、同二年正月日の後白河上皇院庁寄進状案(妙法院文書)に「一処字葛原岸和田庄河内国」とある。これらの庄園は皇室の祈願社領となったので、恒例・臨時の大小国役を免除されている(康永三年七月日「某親王家解文」同文書)。なお当庄が新日吉社へ寄進される以前は、昌雲大僧正の「累祖相承之地」であったと記されている(同解文)


原庄
かずわらのしよう

古代葛原かつらはら郷の郷名を継ぐ。葛原を遺称地として、金倉かなくら川左岸の同地一帯に推定される。同郷は良田よしだ郷の北限(弘安四年八月二八日「官宣旨」善通寺文書)仲村なかむら郷の東限(延応元年二月八日「官宣旨」高野山文書)に位置した。京都賀茂御祖かもみおや(下鴨神社)領。「賀茂社諸国神戸記」などによると、寛治四年(一〇九〇)七月一三日に賀茂両社に寄進された不輸田七四五町(「百錬抄」では六〇〇余町)のうちに「葛原庄 田地六十町」がある。


原庄
はらのしよう

原盆地一帯を庄域とする。室町期には大原おおはら庄とも称され、長寛二年(一一六四)八月一五日の年紀をもつ神峰山寺秘密縁起(神峰山寺文書)の「当山寺領所之事」に「当寺之麓大原庄之納五百石 川窪村之納五十石」とある。「実隆公記」文亀二年(一五〇二)九月二日条には修理職領山城国灰方はいがた(現京都市西京区)との境争論に関連して「摂津国原庄或号大原庄、陽明知行、芥川代官」とあり、近衛家領であることが知られる。本山ほんざん寺寺領安堵にかかる年未詳九月一〇日付高山飛騨守書状(本山寺文書)には「今度大原庄令知行付而」とみえる。立券関係は明らかでないが、建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)に高陽院領内摂津国大原庄がみえる。


原庄
くしはらのしよう

南北朝期から室町初期にかけてみえる庄園名。安楽寺(太宰府天満宮)領。現在東櫛原町一帯に比定される。天徳四年(九六〇)二月二五日に宰府大監紀有頼が「筑後国節原」を安楽寺に寄進したとされる(安楽寺草創日記)。康永二年(一三四三)一一月九日の足利尊氏寄進状写(神代文書/南北朝遺文(九州編)七)では「三井郡櫛原」の八〇町が高良こうら社に寄進され、神代良基がその地頭に補任されている。観応三年(一三五二)書写の安楽寺領注進状には半不輸領として櫛原庄がみえるが、「自去年凶徒押領」と注記されており、当時安楽寺の支配は不安定であった。応永二年(一三九五)閏七月二五日の同注進状(太宰府天満宮文書/大宰府・太宰府天満宮史料一二)にもその庄園としての存在が確認できる。


原庄
はらのしよう

平安期にみえる庄園。庄域については未詳であるが、現杷木町に所在したと考えられる。応徳元年(一〇八四)九月二三日の筑前国司庁宣案(横浜市立大学所蔵文書/平安遺文一〇)で筑前国衙は観世音寺(現太宰府市)の訴えにより、寺領である当庄のうち勘返田二町二段を免除している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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