台湾文化協会(読み)たいわんぶんかきょうかい(英語表記)Tai-wan wen-hua xie-hui

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「台湾文化協会」の意味・わかりやすい解説

台湾文化協会
たいわんぶんかきょうかい
Tai-wan wen-hua xie-hui

日本統治下の台湾の抗日運動機関。 1921年 10月台湾に組織された。第1次世界大戦後の世界的な民族自決主義風潮,日本の大正デモクラシー,中国の五・四運動朝鮮三・一運動などに刺激を受けた留学生の,東京での抗日政治運動に始まり,台湾島内に組織されると,広く大衆基盤をもつにいたった。「文化協会」の名は,政治団体の組織が禁止されていたためで,文化啓蒙運動のかたちを借りて発足した。雑誌『台湾民報』の言論活動や,講演会,新聞閲覧所の設置などによって,大衆の民族的自覚高揚をもたらし,また台湾議会設置請願運動 (植民地議会設置による自治の要求) などの推進母体ともなった。だが 1925年頃から,農民運動勃興マルクス主義アナーキズムの影響を受け,自治要求にあきたらない急進的青年グループの登場,中国の国民革命の高揚による中国本土への留学生の急進化などにより,その運動も脱皮を余儀なくされ,1927年1月の臨時大会以後,協会の主導権は連温卿ら左派の手に握られた。 1928年台湾共産党結成後はその指導下に活動,たび重なる弾圧により 1931年に活動を停止した。なお 1927年の分裂後,蒋渭水ら民族派,蔡培火ら右派は新たに台湾民衆党 (1927~31) を結成した。

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世界大百科事典(旧版)内の台湾文化協会の言及

【中華民国】より


[台湾,満州における文化政策]
 日清戦争によって日本に割譲された台湾では,日本の植民地支配に対する島民の抵抗が強く,児玉源太郎が総督,後藤新平が民政長官になった1898年に,ようやく軍政から民政に移行した。公学校における島民子弟の日本化教育などを通じて進められる同化政策に対抗する島民の反日運動の一つが,台湾文化協会(1921)という形態をとったことは示唆的である。台湾にとっては大陸中国の文化に同一性を求めることもしだいに難しくなっていったのである。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」