吉川経家(読み)きっかわつねいえ

精選版 日本国語大辞典 「吉川経家」の意味・読み・例文・類語

きっかわ‐つねいえ【吉川経家】

  1. 室町後期の武将石見福光城主。幼名千熊丸。通称小太郎。法名平等院寂輔空心。毛利氏より離れ豊臣秀吉に降伏した山名豊国の代わりに鳥取城にはいり、防戦食糧が尽き、部下のため秀吉と和して自刃した。天文一六~天正九年(一五四七‐八一

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改訂新版 世界大百科事典 「吉川経家」の意味・わかりやすい解説

吉川経家 (きっかわつねいえ)
生没年:1547-81(天文16-天正9)

戦国時代の武将。石見国福光城主吉川経安の子。豊臣秀吉に降服した山名豊国のかわりに,吉川元春らの勧めにより1581年鳥取城に入った。秀吉の攻撃に対して奮戦したが,5ヵ月にわたる籠城のすえに食糧が尽き,配下の者のために秀吉と和して自刃,開城となる。因幡一円は織田方の勢力圏に組みこまれることとなったが,この鳥取城攻防戦は,織田・毛利勢力の最初激突といえよう。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「吉川経家」の解説

吉川経家 きっかわ-つねいえ

1547-1581 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)16年生まれ。吉川経安(つねやす)の子。石見(いわみ)(島根県)福光城主。天正(てんしょう)9年豊臣秀吉に降伏した山名豊国にかわり因幡(いなば)鳥取城にはいる。防戦につとめたが糧食がつき,城兵の命をすくうことを条件に秀吉にくだり,天正9年10月25日自刃(じじん)した。35歳。
格言など】兵粮相縮まり候条,一人切腹に及び候。諸人つつがなく相助け候(遺書)

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