戦国期~江戸期の城。鳥取市東町にある。久松城(きゅうしょうじょう)ともいう。城は標高263メートルの久松山山頂に山上(さんじょう)の丸を設けた山城(やまじろ)である。1545年(天文14)に山名誠通(やまなのぶみち)によって創建されたといわれ、城代(じょうだい)として山名氏の臣武田高信(たかのぶ)が入っていた。のち山名豊国(とよくに)が城主のとき家臣に追われ、毛利(もうり)氏から吉川経家(きっかわつねいえ)が派遣された。1581年(天正9)羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉の大軍に囲まれ、3か月にわたる籠城(ろうじょう)戦(鳥取城の渇殺)のすえ、ついに開城した。戦後宮部継潤(みやべけいじゅん)が入り、山麓(さんろく)の二の丸部分を築いている。関ヶ原の戦い後、池田長吉(ながよし)が入り大増築を行い、近世城郭としての鳥取城ができあがった。1617年(元和3)には池田光政が32万石で入った。
[小和田哲男]
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…たとえば若桜(わかさ)鬼ヶ城矢部氏,私部城毛利氏,二上山城三上氏,吉岡・防巳尾城吉岡氏,鵯尾城武田氏,半冊城伊田氏,鹿野城志加奴氏など,比較的有力な国人層が各地に割拠する状況はなお続いており,むしろ徐々に成長をとげてきた名主百姓等に対する安定した支配を求めて,地域ごとの家臣団編制が進められたことにより,その自立性・割拠性はいっそう強化される傾向にあった。 室町・戦国期の山名氏は,布施天神山城そして鳥取城へと拠点を移して,国内の統一と支配の安定化につとめたが,惣領但馬山名氏との一族内部の対立に加え,雲州尼子氏の攻撃を受けて統制力を失い,1573年(天正1)以後芸州毛利氏の支配下におかれることとなった。尼子・毛利両戦国大名による因幡国支配は,それが一時的ないし短期間であったことにも規定され,在地支配を貫徹させるまでに至らなかった。…
…石見国福光城主吉川経安の子。豊臣秀吉に降服した山名豊国のかわりに,吉川元春らの勧めにより1581年鳥取城に入った。秀吉の攻撃に対して奮戦したが,5ヵ月にわたる籠城のすえに食糧が尽き,配下の者のために秀吉と和して自刃,開城となる。…
…このようなたびたびの災害を教訓として,都市の不燃化,千代川や袋川の改修,排水溝とポンプ場の設置,下水道の整備などの対策がすすめられた。鳥取砂丘や湖山池,久松山と鳥取城跡(史),鳥取温泉,吉岡温泉などの観光地がある。【豊島 吉則】
[歴史]
古代の因幡国邑美(おうみ)郡鳥取郷は,江戸時代に池田光政が河道を付け替える以前の旧袋川(湊川)より内側の,久松山麓を中心とする地域に位置したと推定され,中世には鳥執とも記された。…
※「鳥取城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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