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朝鮮民主主義人民共和国南西部の都市。韓国との軍事休戦線に接する開城地区の中心都市である。人口33万4433(1993)。開城市は狭小な盆地に位置し,商業と若干の手工業を中心として発展してきたが,朝鮮戦争による破壊のうえに,共和国の政権が商業を国営化したため,戦後は一から都市づくりをしなければならなかった。商人や手工業者は生産協同組合に組織され,食品,繊維,陶磁器などの地方工業を興した。しかし,国境の軍事的要塞地帯にあるため,大規模な工業は開発されず,休戦線以北の旧京畿道地域の1市3郡からなる開城地区の行政・教育の中心地として,各種の地方委員会と学校などが集中した地方都市となっている。
新羅時代末に台頭してきた地方豪族,王建の根拠地であり,彼が高麗王朝を創建した翌年の919年から約470年間その王都として栄えた。北方に標高488mの松岳山があるところから松岳,松都等の名で呼ばれていたが,995年開城と命名され今日に至っている。当時の開城は丘陵の尾根づたいに築かれた城壁が狭小な盆地を囲む城郭都市であった。城壁内はほぼ半径2kmの円形であり,面積はおよそ14km2にすぎない。松岳山麓の満月台と呼ばれるやや高い所に王宮が建ち,その東西に宗廟である関王廟と社稷壇が建立された。王建は中国から伝わり民衆の間に根づいた風水説を信奉し,王陵や王宮地を選定したとされる。また太祖はじめ諸代の高麗王は仏教を護国宗教として尊び,近郊に観音寺,華蔵寺などの大寺院を建立した。町並みは松岳山に発し城内を貫流する雲渓川に沿って形成された。高麗王朝は11~12世紀にかけて全盛期を迎え,開城は政治・経済・文化の中心として繁栄した。13世紀に入ると蒙古がしばしば侵入し,1232年ついに開城を陥落させた。高麗王高宗は江華島に逃げ込み,抵抗を試みたが,結局その支配に服し,70年開城に帰った。14世紀に入り元の勢力が衰え,高麗王朝はようやく主権を回復したものの,今度は家臣団内の対立抗争に悩まされるようになった。開城内の善竹橋で保守派の頭目鄭夢周を暗殺し主導権を掌握した李成桂は高麗王朝34代の恭譲王を廃し,1392年自ら王位につき,李氏朝鮮王朝を開いた。李成桂は王都をソウルへ移したため,開城はソウルに対する二次的都市に転落し,王宮など主要建造物が破壊されても再建されなかったので,今日では王都の遺跡は礎石などを残すのみとなっている。王宮は1362年紅巾軍侵入に際して焼失し,16世紀の日本軍侵略に際しても敬徳宮など多数が破壊されたとされている。
王城の面目は消失したが,李朝時代の開城は商業の町として発展をとげた。その担い手は開城商人または松都商人と呼ばれたが,彼らの多くは李王朝に迫害された旧王朝の遺臣であり,李朝の階級構造の中で最も卑しまれた商業に生計の道を求めたといわれる。開城商人は固有の信用機構を持ち,また今日の複式簿記に似た開城簿記を考案するなど商術に優れ,全国に行商活動を展開した。主要な商品は衣類,陶磁器,朝鮮人参であった。特に開城近郊の特産物である朝鮮人参は遠く中国,日本へ輸出され,薬用として珍重された。日本植民地時代,近代的な工業製品を武器とする日本商人に圧倒されながらも,開城商人は土着の商人として奮闘し,彼らの根拠地となった開城やソウルの鍾路街には日本人もなかなか浸透できなかったという。李朝時代2万7000人ほどだった人口は,日本植民地時代の半ばには5万人以上に増加した。1945年の南北分断の際開城は韓国領に属したが,朝鮮戦争後は共和国領となった。戦時中,開城は激戦地となりひどく破壊された。また,戦争に際して開城商人の多くが南下し,戦後新たにソウルなどで商業活動の基盤を開拓することになったが,中には大韓油化グループや韓一セメントグループのように中堅財閥に成長した者も少なくない。
執筆者:谷浦 孝雄
高麗王朝の太祖王建が,その2年(919)に王都をここに定め,宮殿を造営して,坊里を5部に分けたところとされる。王都は,当初,北の松岳,南の竜岫山をはじめとする自然の地形を防備線としたが,顕宗(在位1010-31)代にいたって契丹の侵入に備えるため,周囲に石築の羅城が築かれることになり,顕宗20年(1029)に完成した。城壁には大門4,中門8,小門13を開き,そのうち正西門にあたる宣義門は,上に楼閣を構えた堂々たるものであった。高麗末年の恭譲王の時,別に内城を築いたが,李朝に入って太祖代に完成された。松岳南麓の高台には,満月台と称する王宮跡がある。ここには,殿堂,門廊などの礎石が現存し,その規模は広壮である。王宮の正門を昇平門といったが,さらに南北1列に建つ神鳳門,閭闔門を通り,会慶殿門をくぐると,その背後の高台にあって,満月台では最大規模の正殿,会慶殿に至る。正殿のうしろには,長和殿,元徳殿などがあり,また北西には乾徳殿などがあった。しかし,これらの建造物は高麗末期に消失した。殿堂の遺址から,石階段に使用した竜頭彫刻や,当時の多数の瓦塼が発見された。満月台の西方には,天体の観測を行った瞻星台(せんせいだい)跡があり,基石がみられる。都城の内外には,歴代の王などによって,数多くの寺がつぎつぎと建立された。そのうち,都城内第一の規模を誇った演福寺の銅鐘は,開城市内にある鐘楼にいまも残る。その他,金銅製九重塔を包蔵した仏日寺の五重石塔,霊通寺の大覚国師碑,開国寺の石灯・石塔など石造美術が少なくない。また,開城地区の開城市に隣接する開豊郡には,太祖顕陵をはじめとする高麗王室の陵墓が造営された。そのうちの一つである,恭愍王(きようびんおう)陵は,高麗終末期(14世紀後半)に,恭愍王が力を尽くして彼自身と亡妃のために造営したもので,今日でもよく保存されている。
執筆者:西谷 正
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
北朝鮮南部にある都市。人口20万1500(2003推計)。市街は松岳山(488メートル)の南麓(なんろく)に位置し、西方に蜈松(ごしょう)山(204メートル)、南に南山(178メートル)など四方を松山に囲まれていたので、別名松都、松京の名がある。市街地はもと東西南北に四門を設け、城壁で囲んだ典型的な城郭都市であった。1953年以来、人民政権下で軽工業を主とした工業都市へ変貌(へんぼう)した。開城紡績工場をはじめ被服工場、陶磁器工場、日用品工場や、ゴム、時計、楽器などの工場が次々と建設された。高麗(こうらい)朝の首都であったので遺跡も多く、市の東方には高麗末期の忠臣鄭夢周(ていむしゅう)が最期を遂げた善竹橋と崧陽(すうよう)書院、北方の松岳山南麓には高麗歴代王の宮址(きゅうし)万月台の礎石が残っている。これらの遺跡は朝鮮戦争の戦禍を受け大部分破壊された。市街地には新しく建てられた松都政治大学、博物館、少年宮殿などがある。民謡で名高い「バクヨンポクポ」(朴淵瀑布)は市の北方24キロメートルの天摩山麓にある。開城は朝鮮戦争前は韓国(大韓民国)の統治下にあったが、戦争後は北朝鮮に属し、政府直轄地として開城市を中心に長豊郡、板門(はんもん)郡、開豊郡を「開城地区」とした。
[魚 塘]
古くは高句麗(こうくり)に属して扶蘇岬(ふそこう)と称し、のち新羅(しらぎ)に属して松岳郡と称した。919年王建の建国した高麗の首都となり、995年開城府と改称した。城内には宮殿、官庁、寺院が建ち並び、約500年間、高麗の政治、経済、文化の中心であった。郊外の礼成江の河港碧瀾渡(へきらんと)には、中国や日本の交易船が出入し、国際港としてにぎわった。この時代に遼(りょう)、金、元の侵略を受け、何度も戦火に焼かれた。1392年李成桂(りせいけい)の建てた李朝も開城を都としたが、1394年都は漢城(ソウル)に移った。李朝時代の開城は商業で栄えた。開城商人は各地に出張所を置いて全国を商圏とし、独特の複式簿記で名高い。朝鮮戦争では一時、当地で休戦会談が行われた。
[吉田光男]
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出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…高麗時代の工芸は,螺鈿技法にみられる精緻な文様の埋めこみ磨き出し,あるいは,同趣の金銀象嵌や青磁象嵌という特異な技法に独自の世界と美意識を発揮している。【菊竹 淳一】
[建築]
新羅時代の政治・文化の中心は,慶州を中心とした朝鮮半島東南部に偏在していたが,高麗時代に入って,北部の開城に首都がうつされるとともに,北進政策が進められ,顕宗(在位1010‐31)のときには首都に外城を築いた。また半島西側の鴨緑江河口から東海岸の定平に至る千里長城を築いて北方民族に対する防備を固めた。…
※「開城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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