吉田城跡(読み)よしだじようあと

日本歴史地名大系 「吉田城跡」の解説

吉田城跡
よしだじようあと

[現在地名]豊橋市今橋町

豊川と朝倉あさくら川の合流点、豊川の左岸に立地。永正二年(一五〇五)当時今橋いまはしとよばれていたこの地に今川氏の被官牧野古白が築城したことに始まる。明応二年(一四九三)から天正一七年(一五八九)の間の牛久保うしくぼ(現豊川市)牧野氏を中心とした記録「牛窪記」の「今川家築吉田城牧野家守護事」に

<資料は省略されています>

と記す。築城にあたって馬見塚まみづかの岡の浄業じようぎよう院は関屋せきやへ移され悟真ごしん寺となり、その鎮守の天王社は城の鎮守として残された。また馬見塚の地侍渡部平内次はあいに替地となった(今橋物語)。城の名称は、「牛窪記」には「吉祥廓」とあり、「宮島伝記」には峯野みねの城、「今橋物語」には歯雑おかさわ城とも記すとある。

はやくも永正三年には落城して牧野古白は討死し、一族は離散した。「三河国聞書」には大永二年(一五二二)牧野伝蔵信成が、今橋を改めて吉田と称したと記してあるから、今橋城が再び牧野氏の手に入り吉田城と改称されたのである。

吉田城跡
よしだじようあと

[現在地名]南国市岡豊町吉田

岡豊おこう山にあった岡豊城の南東一キロ余にある。平野の中の平城で、城主吉田氏は山内首藤家から出たと伝える。首藤俊氏が相模国山内庄に、弟の俊宗は同国吉田庄に居住し、荘名を氏としたという。俊宗の子孫は足利氏に属して功を立て、土佐国長岡郡に所領一四ヵ村を得て同名の江村郷吉田に来住。建武三年(一三三六)四月、岡豊の八幡はちまん東坂本ひがしさかもとで長宗我部氏・広井氏らとともに北朝方に属して戦っている(「佐伯経貞軍忠状」蠧簡集拾遺)

吉田城跡
よしだじようあと

[現在地名]海部町吉田

中世の山城の跡。標高約三〇メートルの山尾根の先端に築かれた山城(一)と、その西方の標高一二五メートルの城の腰しろのこしとよばれる山の頂部に築かれた山城(二)、山城(一)の北の標高八〇メートルの山頂部に築かれた山城(三)の三つの遺構からなる。山城(一)の遺構は本丸と通称される四八メートル・三〇メートルの土塁囲みの曲輪を中心に構築される。

吉田城跡
よしだじようあと

[現在地名]平鹿町上吉田 田ノ植

上吉田南西部にある中世の館跡。「柞山峯之嵐」に「小野寺義道の臣吉田孫一郎陳道が邑城」とある。稲庭城主小野寺家系(小野寺氏研究資料)に、小野寺景道は「湯沢城ヲ八柏孫七郎ニ譲リ横手ニ居城ス、晩年、同郡吉田ニ隠居シテ宗貞入道ト号ス」とあり、小野寺家系図(小野寺氏研究資料)に、輝道は天仙宗真と号したとある。「語伝仙北之次第」に、宗真には「御子五人御座候、一者西馬音内城主肥前守茂道(中略)後ハ陳道と申候、吉田之御跡御とり被成候」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報