吉田城(読み)よしだじょう

日本の城がわかる事典 「吉田城」の解説

よしだじょう【吉田城】

愛知県豊橋市にあった戦国時代から江戸時代にかけての平城(ひらじろ)。江戸時代には三河吉田藩の藩庁が置かれた城である。当初、今橋(いまはし)城と呼ばれたが、その後、吉田城に改められた。豊橋城ともよばれるが、吉田から豊橋に改名された明治維新後の呼称である。牛久保城(豊川市)を居城としていた牧野古白(成時)が1505年(永正2)、安祥城の松平長親の東三河進出に備えて、あるいは渥美郡の有力国人の戸田宗光に対する備えとして、今川氏親の命によって築いたとされる。その後、牧野氏と田原城を拠点とする戸田氏が吉田城の争奪を繰り返したこともあり、めまぐるしく城主が入れ替わった。1529年(享禄2)、松平清康徳川家康祖父)は吉田城を攻略し、戸田氏を屈服させて、三河支配をほぼ確立した。しかし、1535年(天文4)の森山崩れで清康が暗殺され、松平氏が城から撤退し、牧野成敏が城を引き継いだが、1537年(天文6)には戸田宣成が牧野氏を追って城主となった。1546年(天文15)、牛久保城主の牧野保成の要請を請けた今川氏が吉田城の戸田宣成を攻めて陥落させ、以後、吉田城は東三河の今川氏の戦略拠点となった。『豊橋志要』(豊橋市参事会、1909)によれば、天文年間(1532~54年)に、今川義元が今橋から吉田に改称したという。今川義元は同城の城代として小原鎮実を入城させ、鎮実のもとで東三河の国人を糾合・服属させた。1560年(永禄3)の桶狭間の戦いの後も今川氏の拠点として存続したが、1565年(永禄8)に松平元康(のちの徳川家康)が吉田城を攻めて、小原鎮実を敗走させた。これにより、今川氏は三河支配権を完全に失った。家康は城代として酒井忠次を入城させ、戸田氏、牧野氏、西郷氏などの東三河の国人を統率させた。元亀年間(1570~72年)には三河に侵攻した甲斐武田氏の軍勢吉田城下まで押し寄せたが城を守り抜いている。1590年(天正18)、家康の関東移封にともない、豊臣恩顧の池田照政(のちに輝政と改名)が東三河4郡15万2000石の領主として吉田城に入城した。輝政は以後11年間にわたって城の整備と城下町の建設を行った。関ヶ原の戦いの翌年の1601年(慶長6)、輝政は播州姫路に移封となり、吉田城に三河吉田藩の藩庁が置かれた。以後、竹谷松平氏、深溝松平氏、水野氏、小笠原氏などの譜代大名が城主(藩主)をつとめ、長沢松平大河内氏(大河内氏)が入城して明治維新を迎えた。明治に入り、1871年(明治4)に廃城となり、城跡には名古屋鎮台の豊橋分営所が、のちに旧陸軍の第18連隊が置かれた。この間、1873年(明治6)、失火により城内の多くの建物が失われた。現在、旧三の丸は豊橋公園や豊橋市役所の敷地になっている。旧本丸には1954年(昭和29)に模擬隅櫓が建設された。この三の丸跡から本丸跡にかけて、池田輝政時代の石垣のほか、土塁や堀が残っている。また、本興寺(静岡県湖西市)の奥書院と山門は、吉田城の御殿と大手門を移築したものと伝えられている。JR東海道本線・東海道新幹線豊橋駅前から市電で豊橋公園前または市役所前下車後、徒歩約5分。また、豊橋駅から徒歩約20分。◇吉祥郭、峯野城、歯雑(おかさわ)城、豊橋城ともよばれる。古名は今橋城。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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