日本の城がわかる事典 「名張城」の解説 なばりじょう【名張城】 三重県名張市にあった城。現在の同市街中心部の小高い丘の上に築かれていた。1585年(天正13)、大和郡山城から伊賀国の上野城(伊賀市)に移った筒井定次の重臣松倉勝重が8000石を与えられ土豪の砦のあった跡地に松倉重政(勝重の子、後の肥前島原城主)の縄張りにより築いた城である。重政は後に豊臣秀吉、徳川家康に仕え、肥前国(長崎県)の島原藩6万石を与えられて居城を移した。1608年(慶長13)、藤堂高虎が伊勢・伊賀の2国を与えられて津城(津市)に入城すると、家臣の梅原武政を名張城の城代としたが、高虎は1617年(元和3)に城代職の武政を罷免、上野城の城代の藤堂高清が名張城を管理した。しかし、その後間もなく、名張城は元和の一国一城令により廃城となった。1635年(寛永12)、高虎の養子で今治城(愛媛県今治市)の城主・藤堂高吉(織田信長の重臣丹羽長秀の三男)は伊勢2万石(その後3万石)を与えられ、その翌年、名張城内に居館を構えて名張藤堂家の初代となった。しかし、高虎は高吉を領内藩主と位置づけたため、名張藤堂家は大名の資格を得ることができなかった。このため、高吉は藤堂本家から独立した大名になれるよう幕府に工作をして本家と対立したこともあったが、結局、名張藤堂家は大名としての待遇を得られなかった。名張城が名張陣屋とよばれるのはこのためである。高吉は城下の整備も行い、町筋や用水路などを建設して伊予から連れてきた多数の家臣と商人、職人を町に居住させて、小規模ながら城下町(陣屋町)をつくった。これが今日の名張市街の始まりである。高吉の死後、嫡子を除く兄弟3名にそれぞれ5000石ずつ分知したため、名張藤堂家は1万5000石となり、11代続いて明治維新に至った。城跡は現在、名張小学校・中学校の敷地になっているが、名張藤堂家の当主が私生活に用いた中奥、祝間、囲(茶室)、湯殿などの陣屋の建物の一部や枯山水の庭園が残っている。名張藤堂家の居館(陣屋)は1710年(宝永7)の大火で焼失したため、現残する建物は、この大火後に再建されたものの一部である。また、かつての陣屋の太鼓門が名張城跡裏手にある寿栄(ひさか)神社(名張市)の表門として移築され現存している。近鉄大阪線名張駅から徒歩約5分。◇名張陣屋ともよばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報