善得寺跡(読み)ぜんとくじあと

日本歴史地名大系 「善得寺跡」の解説

善得寺跡
ぜんとくじあと

[現在地名]富士市今泉

今泉いまいずみ寺市場てらいちばにあったといわれる臨済宗寺院。善徳寺とも記される。天正一五年(一五八七)一〇月初旬に善得寺で営まれた太原崇孚(雪斎)の三十三回忌において読上げられた護国禅師雪斎遠諱香語(写、臨済寺文書)によれば、当寺は鎌倉円覚寺の無学祖元門下の大勲全策が貞治二年(一三六三)須津すど庄内天寧てんねい庵という一宇を建立したことに始まる。当時の須津庄惣領主で越後国守の上杉弾正少弼は上洛の途次大勲の噂を聞き、天寧庵に立寄り即座に大勲に帰依した。天寧庵の所在地が湿気の多い場所であったため、応安三年(一三七〇)関東管領上杉朝宗は須津庄内の瀬古せこ(現富士市今泉の古名か)の西に福王ふくおう寺を建てて大勲を開山とし、庄内一二郷のうちで最も豊かな横尾よこお郷を寺領として寄進した。同五年三月に大勲が没したため、門下の竺帆を二世とし、同年五月に寺名を福王寺から善得寺に改め、同七年八月には寺地を拡張するため東側の寺市場の地に移築した。応永二四年(一四一七)に駿河国守護今川範政が当寺の寺領等を没収しようとしたが、三世徳仲の訴えを受けて、今川氏の申請により官寺とされたという。以来寺運は今川氏とともに歩むことになり河東かとう第一の伽藍として栄えた。

満済准后日記」永享六年(一四三四)一〇月二八日条に「善得寺」とみえ、駿河守護今川範忠らから、鎌倉公方足利持氏が将軍足利義教を打倒しようとする野心がすでに明白となったとの注進状が満済に届いたことが記されている。満済はこの注進状を管領細川持之に転送している。当時今川氏は幕府の先兵として鎌倉の監視役の立場にあり、今川領国の東寄りに位置する当寺は東国の情報を今川氏に通報する役目を負わされていたのであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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