日本大百科全書(ニッポニカ) 「太原崇孚」の意味・わかりやすい解説
太原崇孚
たいげんすうふ
(1496―1555)
戦国期の臨済(りんざい)宗の僧。号は雪斎(せっさい)。駿河(するが)国(静岡県)に生まれる。父は庵原(いはら)氏、母は興津(おきつ)氏で、ともに今川氏の重臣である。10歳で富士郡(富士市)の善得(ぜんとく)寺に入山したが、すぐに京都建仁寺(けんにんじ)の常庵龍崇(じょうあんりゅうすう)(1470―1536)のもとで剃髪(ていはつ)し、九英承菊(きゅうえいしょうぎく)と名のる。その後、今川氏親(いまがわうじちか)に請われ、方菊丸(ほうぎくまる)(後の義元(よしもと))の補佐役として帰国、ともに善得寺の舜琴渓(しゅんきんけい)門下へ、さらに京都建仁寺、妙心寺大休宗休(1468―1549)のもとで修行に励んだが、1536年(天文5)方菊丸の兄今川氏輝(うじてる)(1513―1536)の死の直前に帰国した。そして氏輝死後の異母兄恵探(えたん)(1517―1536)との家督争い、すなわち花倉(はなくら)の乱に勝利し家督を継承した義元のブレーンとして、今川氏の三河侵攻や駿甲相三国同盟など多方面にわたって活躍した。また政治的側面だけでなく、妙心寺35世になるなど、東海地方における臨済宗妙心寺派の拡大に貢献したが、弘治(こうじ)元年閏(うるう)10月10日に没した。諡号(しごう)は宝珠護国禅師。
[大久保俊昭 2017年9月19日]