福王寺(読み)ふくおうじ

日本歴史地名大系 「福王寺」の解説

福王寺
ふくおうじ

[現在地名]安佐北区可部町綾ヶ谷

福王寺山(四九六・二メートル)の頂にある真言宗御室派の古刹。金亀山事真院と号す。縁起によれば、弘法大師が来山し、立木に不動明王立像を刻んで本尊としたのに始まるという。しかし本尊の不動明王像(昭和五二年焼失)は藤原時代から鎌倉時代の作とされており、また大治二年(一一二七)鳥羽院が可部かべ庄一〇八石を高野山に寄進している(高野山文書)ことなどもあり、所伝からやや下った平安時代後期頃の開創と考えられよう。

福王寺
ふくおうじ

[現在地名]矢部町城平

はまの館跡の北東にあり、山門は約五〇〇メートル南の岩尾いわお城跡を望む。医王山と号し、天台宗。本尊薬師如来。「国誌」は天長年中(八二四―八三四)俊養の開基とするが、文明一四年(一四八二)九月一七日の阿蘇惟家置文写(阿蘇家文書)によると、阿蘇惟忠が一寺を建立、寺川口てらかわぐち村と金木かなぎ(現下益城郡砥用町)を寺領として寄せた菩提所が当寺のことであろう。

福王寺
ふくおうじ

[現在地名]望月町小平

真言宗智積院末、山号は帝松山。本尊木造阿弥陀如来坐像(重要文化財)は像内の墨書銘(信濃史料)によると、建仁二年(一二〇二)僧幸筌が福王寺を建てて同時にこの像を造って彩色し、建長二年(一二五〇)弟子行西が修理彩色したとあり、その後暦応三年(一三四〇)と元禄九年(一六九六)にも修理が施されている。上掲墨書銘にある「大檀那地頭沙弥隆光」は、暦応三年当時の地頭職で、望月氏の一族であったと考えられる。

福王寺
ふくおうじ

[現在地名]磐田市城之崎

城之崎きのさき丘陵上にある。風祭山と号し、曹洞宗。本尊は聖観音。寺伝によると往古真言宗高野山末として開創され、文安元年(一四四四)天翁義一を迎えて再興、曹洞宗に改宗したという。山号の風祭山は永観二年(九八四)当地が暴風雨に襲われた際、当寺に立寄った陰陽師安倍晴明の祈祷により災厄を除いたという風災除去の故事によるという。境内に安倍晴明大権現を祀る。慶長八年(一六〇三)徳川家康から西貝塚にしかいづかのうちで寺領一二石余を寄進された(「徳川家康寺領寄付朱印状写」福王寺文書)

福王寺
ふくおうじ

[現在地名]下村加茂

加茂神社の東隣にある。宝林山と号し、高野山真言宗。本尊大日如来。江戸時代には越中観音霊場第二一番札所(稿本越の下草)。寺の縁起によると弘仁年間(八一〇―八二四)弘法大師空海が北陸巡回の際、当地に来て自ら聖観音像・不動明王像を造って創建したもので、清和天皇の勅願所であったという。のち源平の争乱や戦国期に兵火にかかって焼失。万治元年(一六五八)から延宝二年(一六七四)にかけての頃、村人が志を寄せて小庵を建て、観音菩薩・不動明王・阿弥陀如来の三尊を安置し、実祐が万人講をつくり、観音堂を建立した。

福王寺
ふくおうじ

[現在地名]筑後市溝口

長寿山と号し、日蓮宗。本尊は十界大曼荼羅。兵火にかかり旧記が焼失し、開基などは不明。「太宰管内志」によると究竟院日清が本尊の釈迦如来像を武蔵国より招来したという。文禄年中(一五九二―九六)越前生れの常円院日源が再興したという。日源は当地に紙漉の技術を伝えた(以上、福王寺由緒)。文禄四年一二月二九日の立花親成坪付写(清水寺文書)によると、福王寺に溝口みぞくち村のうち田屋敷五反余、翌年五月には「久恵まえ」の合計四反七畝余の田屋敷が与えられた(寛延記)

福王寺
ふくおうじ

[現在地名]金成町 中町

金成の町並の西にある真言宗智山派の寺院。金成山と号し、本尊は伝教大師作という勢至菩薩。「金成村安永風土記」によれば、古くは福寿山護国院福王寺と号し、将軍家武運長久鎮護国家の祈願所であったが、のち承安年中(一一七一―七五)金売の橘治信高が帰依し、金王山清鏡院と改め、さらにのち現号に替えたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「福王寺」の解説

福王寺

(長野県佐久市)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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