善徳寺(読み)ぜんとくじ

日本歴史地名大系 「善徳寺」の解説

善徳寺
ぜんとくじ

[現在地名]城端町 西上町

国道三〇四号の西方に沿い、鬱蒼たる大樹に包まれて広大な寺地を有する。廓龍山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来城端別じようはなべつ院ともいう。文明年間(一四六九―八七)本願寺八世蓮如が北国巡錫の際、加賀河北かほく砂子すなご(現石川県金沢市)に建てた坊舎が始まりという(「善徳寺由緒略書」善徳寺文書)。ここに本願寺五世綽如三男周覚の孫蓮真(照護寺)が入った。蓮真は砂子坂から法林寺ほうりんじ松寺まつてら(現福光町)に住んだ(大谷一流諸家分脈系図)。蓮真の越中入は、井波瑞泉いなみずいせん寺宣祐室で土山どやま(勝興寺の前身、現福光町)開基である叔母勝如と無関係ではないと思われる(日野一流系図)。砂子坂は土山と至近距離にあるので瑞泉寺の与力分である河上かわかみ(松寺)に入ることができたのであろう。越中入は越前一向宗寺院が守護朝倉氏によってほとんど没落した永正三年(一五〇六)以前にあたるとみられる(「実隆公記」同年七月二一日条・同年八月一〇日条・同月二一日条)。なお勝如は明応四年(一四九五)に没している。「栄玄記」に「蓮如上人吉崎殿に御座の時加州河北三番山すなごさか道乗と申ひと是照護寺門徒なり本尊を望み申され候」とある。この砂子坂の照護しようご(蓮真)門徒である道乗が、越中在住時の蓮真の護持者であったかもしれない。道乗は光徳こうとく(現福光町)開基といい、永正六年没。蓮真は同八年に没している。

蓮真次男実円の代に善徳寺と号し、砂子坂から法林寺・山本やまもと(現福光町)へと寺基を移している(大谷一流諸家分脈系図)。実円に妻が三人あり、そのなかの二人は「右兵衛大夫中原勝章女」「滋野井教国女」である(同系図)。勝章とは検非違使の勢多兵衛大夫勝章であり(「北野社家日記」延徳二年九月八日条)、「利波郡山田庄」に住していた(光厳東海和尚録)


善徳寺
ぜんとくじ

[現在地名]美和村鷲子

鷲子宿とりのこじゆくの西端に位置し、東側を川が流れる。額光山信楽院と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。

「新編常陸国誌」の鳥子村の項に「寛政二年鐘銘云」として「善徳寺、善念之所創也、念公(中略)官削髪為僧、更名善念、開精舎於今所、勘誘門徒、帰依者浸多、所謂二十四輩之一也、伝法嗣続至余十有八世矣」とある。開基の善念房は俗姓を南酒出六郎義茂と称し、佐竹昌義曾孫であった。親鸞の教えに感激して弟子となり、建保年間(一二一三―一九)現那珂町南酒出みなみさかいで一宇を創建して真宗布教のために精進した。


善徳寺
ぜんとくじ

[現在地名]下市町大字貝原

丹生にう川左岸の坪手垣内つぼてかいとにある。桜樹山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。初め禅宗であったが、南北朝頃に真宗に転じた。安満左馬尉明武入道が暦応三年(一三四〇)当寺に真宗道場を創立。弟藤太は藤井寺合戦に南朝方に属し軍功があったが、のち当寺に入って了願のあとを受け、了善と称したという。「大和志」に安満了願墓として「在丹生荘貝原村善徳寺、願助楠正行屡有戦功、寺蔵延元三年賞安満藤太軍功、口宣案等」とあり、了願墓と伝える五輪塔が現存する。


善徳寺
ぜんとくじ

[現在地名]足利市大町

足利学校跡の東側の道を隔てた地に位置する。臨済宗妙心寺派で東光山と号し、本尊は薬師如来。寺伝によると、開基は足利尊氏、開山は鎌倉円覚寺の開山無学祖元(仏光国師)四世の法孫仏満という。初め岩井いわい村にあって千年寺と称したが、慶長年間(一五九六―一六一五)現在地に移転したという。現在、岩井の旧地には地蔵堂があり、石造の乳房地蔵尊を祀る。


善徳寺
ぜんとくじ

[現在地名]西尾市善明町 本郷

東から連なる山並の麓にある。瑞雲山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。もと天台宗の道場であったが、年久しくして堂宇大破、無住の廃寺となる。永禄四年(一五六一)深溝ふこうず(現額田郡幸田町)城主松平好景が、善明ぜんみよう堤で戦死、その臣板倉秀頼が、主君の菩提のため寺を再興、剃髪して祐真と称した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「善徳寺」の意味・わかりやすい解説

善徳寺 (ぜんとくじ)

富山県南砺市の旧城端(じようはな)町にある真宗大谷派の寺。城端別院という。寺伝によると,本願寺8世蓮如が文明年間(1469-87)に加賀・越中国境の砂子坂に開いた坊舎に始まるといい,ここに本願寺5世綽如の曾孫蓮真が入り,その子実円の代に寺号を許された。礪(砺)波郡南部の川上衆を率いて一向一揆に活躍したが,その間,山本,福光と寺基を転じ,1559年(永禄2),あるいは72年(元亀3)に,城端の荒木氏の請によって現在地に移った。本願寺教団の東西分派にあたり,当住空勝は教如方に参じて功があったため,越中東派の触頭となった。1717年(享保2)からは本山格に準ぜられ,また加賀藩主前田斉泰の四男が入寺したこともある。近年,寺蔵の史料目録が刊行され,1万点を超す古文書,記録の全容が明らかにされた。
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百科事典マイペディア 「善徳寺」の意味・わかりやすい解説

善徳寺【ぜんとくじ】

富山県城端(じょうはな)町(現・南砺市)にある真宗大谷派の寺。城端別院とも。文明(ぶんめい)年間(1469年―1487年)本願寺蓮如(れんにょ)が建てた坊舎に始まり,数度の移転の後現在地に移った。この間一向一揆(いっこういっき)に活躍。本願寺の東西分派では東派教如(きょうにょ)に与した。江戸期金沢藩から厚く保護され,13代藩主の四男は当寺に入寺している。

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デジタル大辞泉プラス 「善徳寺」の解説

善徳寺

富山県南砺市、城端線城端駅の南にある真宗大谷派の寺院。東本願寺の城端別院で、山号は廓龍山、本尊は阿弥陀如来。歴史的に重要な古文書を多数所蔵する。

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