日本歴史地名大系 「四日市町」の解説
四日市町
よつかいちまち
三重郡に属する。
文明五年(一四七三)内宮・外宮は、伊勢湾における新警固停止の禰宜庁庁宣を出した。警固とは海上関のことで、警固役すなわち関税を徴収することを目的とする。従来より存在したものを本警固、新設されたものを新警固という。文明年間には、守護一色氏・北畠氏・長野氏やその被官の国人たちによって多くの新警固が設けられ、神宮はしばしばその停止を命じた。文明五年に停止を要求された「新警固所々」は七ヵ所。そのなかに「四ケ市庭浦」が出る(「文明年中宮司引付」神宮文庫蔵)。この時期すでに市庭(市場)と港の機能があったと思われる。四日市庭は、浜田氏が文明二年浜田城築城に際して、西方にあった東海道往還を城の東に移し、北市場・南市場を開いたのに始まるという(旧版「四日市市史」)。江戸時代、享和元年(一八〇一)のものではあるが、諸色明細帳(四日市市立図書館井島文庫蔵)に「当宿之儀前々者、毎月四日十四日廿四日、南町・北町・立町ニ而市立仕候得共、年久敷打絶申候」とあるのは前記の事情を物語るものであろう。「四日市」の由来もこれによる。また年不詳の丹生川太郎兵衛書状(今堀日吉神社文書)によれば、四本商人の足子が居住していた。
四日市町
よつかいちまち
四日市町
よつかいちまち
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報