日本歴史地名大系 「四条河原芝居街」の解説
四条河原芝居街
しじようがわらしばいまち
〔鴨河原の興行〕
室町時代の一時期、鴨川の河原が猿楽・田楽の勧進興行で雑踏し、「河原桟敷」と称される半ば常設の芝居小屋が出現したことがある(看聞御記・満済准后日記)。「太平記」巻二七(田楽事付長講見物事)には貞和五年(一三四九)のこととして、
と大観衆が集まり、この勧進田楽は「桟敷崩れ」を引起こして大騒ぎになったことが語られる。だが四条河原での芸能興行の例は乏しい。四条のみならず河原が興行地として利用されるのは、ほぼ応仁・文明の乱以前で、以後興行地は洛中に移り、室町時代中・後期には、河原での芸能はみられなくなる。
中世の鴨河原は洛中と洛外を区切る境界でしかなく、課役を逃れて住着いた河原の民の生活が営まれていた。大永年間(一五二一―二八)の景観を示すという町田家旧蔵の洛中洛外図屏風、永禄(一五五八―七〇)頃の作品とされる上杉家の洛中洛外図屏風などは、荒涼たる河原に川狩の者を描くのみである。天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉が洛中洛外の境界を定めようとした際の記録にも、「東は高倉よりあなたは鴨河原也。遥かにこれを見わたし給へば、渺々として東山にとりつづき、みな耕作の地也」(室町殿日記追加)とある。
「東海道名所記」にみえる出雲お国の興行地の変遷を追うと、「出雲の神子におくにといへるもの、五条のひがしの橋づめに、やゝ子をどりといふ事をいたせり」「其後、北野の社の東に、舞台をこしらへ(中略)をどりけり」「三条縄手の東のかた、祇園の町のうしろに舞台をたて、さまさまに舞をどる」「京中これにうかされて、見物するほとに、六条の傾城町より、佐渡島といふもの、四条川原に舞台をたて、けいせい数多出して、舞をどらせけり」ということになる。第一の「五条東橋詰」の時期は文脈からしてかぶき踊以前、すなわち慶長八年(一六〇三)より前と思われ、四条河原に先立って五条河原が芸能興行の拠点となる時代のあったことを示唆する。東博本・河居家本などの洛中洛外図屏風には、四条河原とともに五条河原の東橋詰に芝居が描かれ、「東海道名所記」の内容とも一致する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報