江戸時代に行われた大名の配置替えのこと。転封(てんぽう)または移封ともいう。豊臣秀吉のときに始まるが,江戸幕府の初期3代の将軍によって強行された。まず家康は,関ヶ原の戦の戦後処理の一環として,西軍にくみした外様大名88名を取りつぶして所領416万1084石を没収するとともに,毛利輝元,上杉景勝,佐竹義宣ら5名の外様大名の所領216万3110石を削り取って,輝元は安芸広島から長門・周防2ヵ国に,景勝は陸奥会津から出羽米沢に,義宣は常陸水戸から出羽秋田に転封した。家康はこれらの没収地を東軍に属して功績のあった外様大名に配分して転封する一方,直轄領(天領)に編入し,あるいは徳川一門(親藩)・譜代大名の取り立てにあて,関東をはじめ東海,東山および北陸,近畿,東北の一部に転封・配置した。その数は68名に達する。こうして徳川氏を中心とする新しい大名配置ができあがり,幕藩体制の基礎がつくられた。ついで秀忠は,外様大名25名,徳川一門・譜代大名16名を改易したが,転封策の中心は,家康の末期に打ち出された譜代大名の畿内集中配置とともに,東北配置を積極化したところにあった。こうして畿内とその周辺,東海・信越地方,東北南部の大名配置は激しく変化し,ここで豊臣政権下の大名配置は大きく変容した。
さらに家光は外様大名29名,徳川一門・譜代大名20名を改易したが,九州および中国,四国など西国を中心に強行したところに特色があった。しかもそれが幕府の対外政策と並行し,鎖国体制を完成するための国内的政治措置として実施されたことは重要である。こうして九州の大名配置は大きく変化し,東九州に譜代大名が集中配置されるとともに,島原の乱後は西九州にも譜代大名が配置された。一方,同じ過程を通じて中国,四国には徳川一門が配置され,先に成立した御三家(尾張,紀伊,水戸)についで,松山松平(久松系),松江松平(越前系),高松松平(水戸系)および東北の会津松平(保科系)の4家が成立した。こうして家光の末期までに徳川一門,譜代大名の配置は全国に拡大し,これら徳川系大名を中心とする新しい領国体制ができあがった。その延べ総数は徳川一門22名,譜代大名151名(改易を含まず)となる。4代将軍家綱以降,幕政における文治政治の展開にともない幕府の大名統制が緩和された結果,改易とともに転封も減少し,外様大名はその領国に定着するに至ったが,譜代大名は幕政執行の立場から,行政的転封のほか,改易や交換によって引き続き転封が行われた。しかし,これも8代将軍吉宗の享保期(1716-36)を境に減少し幕末に至った。転封は改易とともに江戸幕府の大名統制の基本をなし,それによって兵農分離が促進される一方,徳川氏を中心とする幕藩体制が確立するとともに,大名統制の緩和は逆に幕藩体制を崩壊にみちびく遠因となった。
執筆者:藤野 保
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江戸時代に行われた大名の配置替えのこと。転封(てんぽう)または移封(いほう)ともいう。豊臣(とよとみ)秀吉のときに始まり、江戸幕府の初期3代将軍によって強行された。まず徳川家康は、関ヶ原の戦いの戦後処理を通じて、東海・東山地方に配置されていた外様(とざま)大名を中国・四国・九州などの辺境地帯に転封する一方、大坂の陣後は、大坂およびその周辺諸国に譜代(ふだい)大名を集中配置したが、2代秀忠(ひでただ)は、さらに譜代大名の大坂周辺集中配置と東北進出を積極化し、3代家光(いえみつ)は西国を中心に転封を強行し、九州には譜代大名、中国・四国には徳川一門(親藩)を転封・配置した。こうして徳川氏を中心とする大名配置=領国体制ができあがった。寛永(かんえい)期(1624~44)を境に、外様大名の転封は減少したが、譜代大名は幕政執行の立場から、その後も盛んに転封が行われた。転封は改易とともに江戸幕府の大名統制の基本をなし、それによって、兵農分離が促進され、幕藩支配体制が確立した。
[藤野 保]
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