地頭方村(読み)じとうがたむら

日本歴史地名大系 「地頭方村」の解説

地頭方村
じとうがたむら

[現在地名]水窪町地頭方・山住やまずみ

領家りようけ村の東、北東から南西へ流下する白倉しらくら川・水窪川とその支流の流域にある。北は白倉しらくら山・平森ひらもり山・朝日あさひ山などを越えて信濃国伊那いな八重河内やえごうち(現長野県南信濃村)、東はなか尾根おね山・六呂場ろくろば山などを越えて榛原はいばら郡に通じ、南は気田けた川下流の勝坂かつさか(現春野町)。村名は中世下地中分により在地が領家方・地頭方に二分された際、地頭方に属したことに由来するとされる。「遠江国風土記伝」には里として久頭郷くずごう押沢おしざわ向市場むかいちば竹島たけのしま神月かんづき両久頭もろくず小瀬戸こせど地頭じとう宮前みやまえ有本ありもと上村うえむら途中とちゆうが、延宝五年(一六七七)検地帳(片桐家文書)では小瀬戸・神月・久頭合・宮前・上村・向市場・押沢・向島むこうしま地双ちそう・両久頭・時原ときはら・有本がみえる。南部の山住権現領分は山住村として一村扱いされる場合もあり、同領内には大坪・大寄おおより畑梨はだなし門桁かどげた河内浦こうちうらの集落がある(延宝五年「山住神領御改竿入高覚」山住家文書)

永正一〇年(一五一三)六月七日の山住三所大権現の棟札銘写(山住主税氏所蔵文書)には社殿造営の大檀那として「地頭方村久頭郷城主」の「源朝臣良茂大膳亮奥山氏」がみえる。

地頭方村
じとうがたむら

[現在地名]相良町地頭方・地頭方一丁目

落居おちい村の南に位置し、東は駿河湾に面する。南は新庄しんしよう村、西は笠名かさな村・堀野ほりの新田村。南方の岬突端の飛地に枝郷御前崎おまえざき(現御前崎町)があり、郷帳類では当村の高に含まれる。天文一四年(一五四五)正月二六日の今川義元判物(正林寺文書)に「榛原郡之内新庄地頭方堀野之事」とあり、今川義元は地頭高橋左近将監から寄進された地頭方・堀野ほりのなどを竜源寺(所在地不明)に安堵している。天正一七年(一五八九)七月七日の徳川家七ヵ条定書写(御庫本古文書纂)は酒井与九郎重勝が「遠州植原地頭方百姓等」に宛てたものであるが、植原は榛原の誤記であろう。文禄二年検地高目録では高三八九石余。正保郷帳では田方三四〇石余・畑方八二石余、幕府領、ほかに御崎駒方みさきこまがた(現御前崎町の駒形神社)領四石五斗・大明神(現若宮神社)領一石八斗・法音ほうおん(法恩)庵領二石五斗・釣月ちようげつ(現曹洞宗)領二石がある。

地頭方村
じとほうむら

[現在地名]三原町神代地頭方じんだいじとうほう

三条さんじよ村の南にある。東部を福良ふくら街道、西部をなか街道が通る。南東方黒道くろみち村の山手、越良こえら谷口に当村の傍示があり、この谷より発する越良川(馬乗捨川上流)が南部国衙こくが村境を北西流する。正保国絵図に村名がみえ、高七六〇石余。天保郷帳では高七八八石余。反別戸数取調書によると反別九五町六反余、高八二八石余、うち蔵入高三二七石余・給知高四九七石余。給人は大津典膳ら一二人。ほかに八幡社領六斗余があった。家数二二九・人数八一一。水利として善太ぜんた池・池田池などの溜池がある(味地草)

地頭方村
じとうほうむら

[現在地名]吉見町地頭方

本沢ほんざわ村の東、荒川の右岸低地に位置する。田園簿によると田高一八一石余・畑高一六〇石余、幕府領。日損場との注記がある。元禄郷帳では高七五四石余。「風土記稿」成立時には幕府領と旗本三家の相給。その後幕府領の一部が下総古河藩領となり、幕末の改革組合取調書では同藩領・幕府領と旗本三家の相給。慶長年中(一五九六―一六一五)伊奈忠次が検地を実施、寛文八年(一六六八)には新田検地、延宝六年(一六七八)にも本検地が行われた。

地頭方村
じとうかたむら

[現在地名]上尾市地頭方

堤崎つつみさき村の北、大宮台地指扇さしおうぎ支台上にある。西は南北に流れる堀を隔てて平方ひらかた領の領家りようけ村。足立郡平方領に属する(風土記稿)。村名は、建武元年(一三三四)四月一〇日の足利直義下知状(宇都宮文書)にみえる大谷おおや郷地頭職にかかわると考えられる。田園簿では田四五石余・畑一二七石余、岩槻藩領。延宝九年(一六八一)上知され、国立史料館本元禄郷帳では幕府領。幕末の改革組合取調書では旗本小川領三六石余・幕府領一一〇石余の二給。検地は寛永七年(一六三〇)・元禄七年(一六九四)、新田検地は延享元年(一七四四)に実施された(元禄七年「検地帳」島田家文書・「風土記稿」)

地頭方村
じとうがたむら

[現在地名]上越市地頭方

青木あおき村の南に位置。地名は中世の庄園制に由来すると思われる。正保国絵図によると高二七二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報