日本大百科全書(ニッポニカ) 「坂上明基」の意味・わかりやすい解説
坂上明基
さかのうえのあきもと
(1138―1210)
平安末~鎌倉初期の明法家(みょうぼうか)。兼成(かねなり)の子。正五位下。坂上氏は後漢(ごかん)霊帝(れいてい)の子孫で、応神(おうじん)天皇のときに朝鮮半島を経て渡来したと伝える阿知使主(あちのおみ)を祖とする。平安初期には坂上田村麻呂(たむらまろ)のような武人を出したが、平安中期以降は明法博士(はかせ)を世襲する中級官人として朝廷の実務に携わった。明基は山城守(やましろのかみ)、検非違使(けびいし)、大判事(だいはんじ)を歴任し、明法博士となる。後鳥羽(ごとば)上皇の命を受けて平安末期の公家(くげ)法を解説した『裁判至要抄(しようしょう)』(1207)を著した。また、坂上氏の家学の集成といわれる同じ性質の『法曹(ほっそう)至要抄』(平安末から鎌倉初期の成立)も明基の撰(せん)とされている。承元(じょうげん)4年5月7日没。
[羽下徳彦]