改訂新版 世界大百科事典 「坂上氏」の意味・わかりやすい解説
坂上氏 (さかのうえうじ)
日本古代の氏族。渡来系氏族の東漢氏(やまとのあやうじ)(倭漢氏とも書く)から分かれた多数の枝氏族の一つ。東漢氏は,応神天皇の時代に阿知使主(あちのおみ)に率いられて日本に渡来してきたという伝承をもち,5世紀ころよりヤマト朝廷の文筆,財務,外交にたずさわるとともに,あとから渡来してきた手工業技術者などを支配下におさめて急速に成長した氏族であるが,その後分裂をくりかえし,60以上の枝氏族に分かれたという。しかし分裂後もこの氏族は,681年(天武10)に直(あたい)姓から連(むらじ)姓に変わったときも,685年に忌寸(いみき)姓を与えられたときも,一括して東漢氏と称されたように,氏族としての結合を保っていた。ただしその結合はゆるく,枝氏族相互は対等で,宗家と呼ぶべきものはなかったと考えられている。坂上氏はそうした枝氏族の一つであるが,壬申の乱(672)に坂上老(おきな)が武功をたてて以後しばらくは頭角をあらわす者がなかったが,孫の犬養(いぬかい)が聖武天皇に武芸の才を愛されて正四位上にのぼり,その子苅田麻呂(かりたまろ)が764年(天平宝字8)の恵美押勝の乱に武将としての功あって大忌寸(おおいみき)の姓を授けられ,道鏡追放にも功あって785年(延暦4)従三位となり,またみずから上表して同族10氏を宿禰(すくね)姓に改めることに成功すると,坂上氏は東漢氏の宗家の観を呈するようになった。その子が蝦夷征討に活躍した田村麻呂(たむらまろ)で,征夷大将軍となり,武功により従三位にのぼり,さらに正三位大納言となる。田村麻呂ののちは武門氏族としての坂上氏はおとろえたが,平安時代末期に明法道(みようぼうどう)の家として再び名をあげる。すなわち定成(1088没)が坂上氏としてはじめて明法博士となり,ついで明経道の中原氏から定成の養子になったと推定される明法博士範政は,〈法家坂上一流の祖〉と称された。以後その子孫は代々明法博士に任じ,なかでも範政の子の明兼(あきかね),明兼の孫の明基(あきもと)は,それぞれ《法曹(ほつそう)至要抄》《裁判至要抄》の著者として知られる。
執筆者:早川 庄八
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報