坂・坂山(読み)おうさか・おうさかやま

日本歴史地名大系 「坂・坂山」の解説

坂・坂山
おうさか・おうさかやま

近江と京都を結ぶ交通の要衝東海道が通る。相坂・合坂・会坂とも記される。逢坂山は、狭義には大津市街南西部、国道一号の北側に位置する標高三二五メートルの山をいうが、広義には同山の南麓一帯(大津市南西部と京都市山科区の境付近)をさし、歴史的には街道沿いの近江と山城との国境を逢坂と総称して用いられた。いわゆる逢坂越の交通の要所であり、古代には軍事上の目的から逢坂関が置かれ、中世には同関で関銭が徴収された。関が設置されたため、関山せきやまともよばれた。一〇世紀末頃の成立とみられる「いほぬし」では、京都粟田あわた(現京都市東山区)より当地に至った増基法師が「せきやまの水のほとり」で「せき水に又衣手はぬれにけりふたむすひたにのまぬ心に」と詠んでいる。

〔境界の地〕

「日本書紀」神功皇后摂政元年三月五日条によると、武内宿禰仲哀天皇の皇子忍熊王の反乱鎮圧のために出陣、当地でこれを撃破し、「武内宿禰、精兵を出して追ふ。適逢坂に遇ひて破りつ。故、其の処を号けて逢坂と曰ふ」と記される。すなわち両軍が出会った地であることを地名由来とするが、本来は二つの坂が出会う場所=峠の語義と考えられる。また同書欽明天皇三一年七月条には、高句麗の使節が近江を訪れた際、これを迎える船が難波なにわ津から「狭狭波山」とよばれた逢坂を陸行で越え、琵琶湖にまで運ばれたことが記される。同書大化二年(六四六)正月条にみえるいわゆる「大化改新詔」の第二条では、畿内の四至が規定されているが、東の「名墾の横河」、南の「紀伊の兄山」、西の「赤石の櫛淵」に続き、「北は近江の狭狭波の合坂山」とあり、当地が畿内の北限と位置づけられている。天暦六年(九五二)六月、疫神の京都への侵入を防ぐために執行された四角四堺祭では「会坂堺」への使節派遣が命じられており(同月二三日「官宣旨」朝野群載)、当時京都の四至の一つとして認識されていた。のちの宝徳二年(一四五〇)五月の四角四堺祭の際にも会坂へ賀茂在長が派遣されている(「康富記」同月二日条)

〔坂越〕

境界の地である当地は、古代より東海道の交通の要衝として知られる。逢坂山を挟んで中世よりその北麓の小関こぜき越の道が存在し、これに対して南麓をめぐる逢坂越は大関おおぜき越とも称された(新修大津市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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